【第407回】 楽に向かう世の中と、楽に逆らう武道

人の世は有史以来、少しでも苦労しないよう、危険を避けられるよう、力を使わなくてもいいよう、等など楽に向かって進んでいるように思える。それ故だろう、人類を楽にするものは高く評価される。

例えば、本来なら歩かなければならなかったところを、電車や車や飛行機のお陰で、楽に移動することができるようになった。重い物を移動する仕事も、フォークリフトやクレーンなどの機械のお陰で楽にできる。階段を足で上り下りしていたのが、エスカレーターやエレベーターで容易になったし、通路に立っているだけで運んでくれる「動く歩道」まである。

家から会社や目的地に行くまでに、車や電車や動く歩道やエスカレーターなどを使うと、自分の足で歩くのは非常に少なくなる。江戸時代以前にはすべて自分の足で歩いたわけだから、その楽チンさは彼らの想像を絶するものであろう。

家には電化製品が数多く具えられるようになった。かつてはマッチで火を起こし、新聞紙と薪を燃やしてご飯を炊いたり、風呂を沸かしていたのが、スイッチを押すだけでご飯が炊けたり、風呂も沸く。

会社にも電化製品や電子機器があり、手書きで手紙を書いて連絡していたのが、ファックスや電子メールでやるようになったし、頭やそろばんでやっていた計算も、電算機やコンピュータで簡単にできるようになった。人類は、とめどなく楽に向かって進んでいくようだ。

しかし、合気道の教えではないが、世の中のすべてのものは陰陽、裏表でできているはずである。この「楽に向かって進む」には、必ずその反対がなければならないだろう。

それは、例えば武道であろうと考える。合気道は武道であるので、合気道を中心に考えてみよう。

授業や仕事が終わってから、疲れた体と心に鞭打って道場に来て、投げたり受けを取ったりし、へとへとになって家路に着くわけだが、楽チン者から見れば、わざわざ自分から苦をつくるとはご苦労なことだ、と思うだろう。授業や仕事が終わったら、風呂にでも入って、一杯飲んで寝る方が楽チンであるにきまっている。

しかし、この疲れていても稽古することや、夏の暑い盛りに汗を噴き出させ、喉がからからになってもやることに、真からの満足感が得られるのである。道場で稽古をせずに、家で一杯飲んでも、喜びは小さく、満足感も小さいはずであるし、それは一時的な満足のはずだ。

60,70歳になれば、残された時間が少ないことを感じるようになってくる。楽チンを求めていくのもよいだろうが、反楽チンで稽古をし、生活をした方が、お迎えが来た時に、後悔しないだろうと思う。

生活における反楽チンとは、例えば、できるだけたくさん歩くことである。つまり、車や電車などを極力使わないようにするのである。食べ物も、できるだけ手間をかけてつくったものを食べる。また、自分の頭と心に毎日の課題を課して、楽させておかないようにする。例えば、得物の素振りや体操をする。誰から頼まれるものでもないが、宇宙天国・地上楽園建設のための使命を果たしていく、等であろう。

合気道の稽古においても、この反楽チンは追及されなければならないものである。稽古とは、最初、楽チンを求めている社会から一時でも抜け出し、反楽チンを追究するために始めるのだと思う。しかし、この楽チンの枠からはなかなか抜け出せないし、また、尾を引いてしまうものである。

合気道の稽古は相対で技をかけ合って練磨していくが、どうしても自分を甘やかせてしまい勝ちである。相手には厳しく、自分には甘くなってしまうのである。これでは、楽チン稽古である。

反楽チン稽古とは、自分には徹底的に厳しくし、相手に対しては愛でやることである。二教や三教で関節を決めさせるにも、限界まで伸ばしてもらうだけでなく、宇宙の法則に少しでも外れないような動きや息づかいをしていくことである。

武道は、楽に向かう流れに逆らうものである。しかしまた、人の本来の機能、姿、性を取り戻すことのできるもの、ということもできるだろう。

楽チンだけを追っていると、かえって、反楽チンになっていってしまうようだ。後期高齢者の多くを見ていると、そのように思える。稽古でも楽チン稽古ばかりしていると、反楽チンになってしまい、真の満足を得られなくなるはずだ。楽チンになりたければ、反楽チンを追究しなければならないと考える。