【第406回】 後進のために

若いうちは、他人のことなどあまり考えなかった。自分がよくなることだけで、自分のため、自己中心で、利己主義で生きてきた。合気道の稽古もそうであった。

しかし、それを悪い事だったなどという反省はしていない。そうあるべきだったと思うし、それでよかったと思っている。

ただ、還暦を過ぎる頃から、その考えは変わってきた。また、合気道も変わってきた。それは、後進を大事にすること、後進に伝えるべきことを伝えていくことが高齢者の使命である、と考えるようになってきたからである。

極端なたとえであるが、後進がいなければ、どんなにすばらしい国、文化、遺産でも、いずれこの世から消えてなくなるだろう。無くなってしまうのなら、やっていることに意味がなくなってしまう。消えて無くならないためには、後進を育て、後進に伝えていかなければならないのである。

しかし、それは容易ではない。よいものだから教えよう、伝えようとしても、彼等がその気にならなければ駄目なのである。だから、彼らをその気にさせなければならない。

人や後進に物事を伝えていくのは、並大抵なことではないだろう。例えば、起業家達が創業期に発揮するリーダーシップは、「挑戦心、決断力、行動力、粘り強い努力、自己責任意識、反骨精神、豊かな感性など混然一体となった資質から発揮される」という。(進藤晶弘メガチップス会長)

このような資質が必要だし、努力を払わなければならないということである。合気道の場合には、資質はいかんともし難いが、努力は相当できるだろうから、努力でカバーするしかない。

後進がその気になって、興味をもってやるには、基本的には後進自身のためになるからである。自分のためになるということは、自分が成長することである。

しかし、自分が満足するように成長するのは、容易ではないことだろう。いろいろな障害があるし、不慮の事故、不運などもあるはずである。また、成長するということがどういうことかを、考える余裕もないことだろう。

合気道では、技が上達するということが成長ということであるが、上達とはどういうことなのか、どうすれば上達できるのか、などを考える余裕は、若いうちはおそらくないであろう。

後進が問題を抱えたり、助言を求められたりした場合には、いつでも対応できるように準備していなければならないだろう。後進に聞かれて答えられなかったり、技を示せなければ、後進は落胆するだろうし、彼らの成長はなくなってしまう。そのために、さらなる稽古への興味も失ってしまうかもしれない。

しかしながら、後進のためになるということは、後進に技を教えたり、助言したりすることだけではない。それよりも、最も後進のためになるのは、われわれ高齢者が一所懸命に稽古をしている姿を後進に見せることではないか。年を取っても成長している姿を見せることである。高齢者が常に、そして、いつまでも成長するために変化を求めている姿を見せるのである。

つまり、高齢者自身が変化し続けていくことが、後進にどうのこうのということよりも大事であり、後進のためになる、ということになる。
高齢者が一生懸命に稽古を続けていけば、後進が現れ、そして継承してくれると信じる。