【第400回】 満足するということを知らない

人は、満足することを知らなければならない、と以前にも書いた。戦争などの争いや危険もない今日では、それぞれ仕事をしたり、勉学に励んだり、家庭をもったりしている訳だし、食べて寝ていられるだけでも幸せ、と満足しなければならない。

ましてや合気道の稽古ができるなどは、種々多数の要件が満たされているわけだから、満足しなければならないはずである。

人はその状態が変わって初めて、あの時は幸せだったな、と分るようである。病気になったときとか、仕事を失ったとき、または稽古ができなくなったときなどにはじめて、当時は幸せだったと思うようになり、もっと満足し感謝しておけばよかった、となる。

京都の大雪山龍安寺という禅寺には、徳川光圀公が寄進したといわれる有名な“つくばい”(写真)がある。それには、中央に開けた口という字を利用して、上下左右に偏や旁などを並べ、「吾唯足知」(われただ足るを知る)と読ませる工夫がされている。これは「私は満足することだけを知っている」という意味であるというが、上記のようなことではないかと考える。

しかしながら、合気道の修行においては、満足ということはないだろう。満足してしまったら、それ以上は前に進まないことになり、修行は終わりになってしまう。宇宙の条理や営みを身につけていく技の練磨でも、それをすべて完全に身につけることは絶対にできないわけだから、修行に完璧はないし、従って完全な満足はないことになる。われわれの修行は、宇宙の生成化育に則って、完全を目指すだけである。いわゆる至善、至美、至仁、至愛である。

宇宙の生成化育に則り、最高の仕事をしようと、自分の仕事に挑戦している方々、例えば、芸術家、芸能人、職人、武道家等などに、自分の仕事はこれで完璧だといって満足する人、満足した人はいないだろう。彼等は、満足するということを知らないはずである。

すると、人は満足することを知らなければならないし、また、満足する事を知ってはならない、という矛盾で生きなければならないことになる。

まさしくこれが、合気道家としての生き方と修行である、と考えるのである。この相反することが、引き合い、絡み合って、螺旋で進んでいくわけである。ここに、力が出るし、安定があり、そして進歩・上達があるはずである。