【第397回】 満足していることを知らない

人類はこの7,8百万年にわたって、少しでも楽になるよう、よりよい生活ができるように、生きてきたように思う。だから、このように経済が豊かになり、科学が発達し、芸術・芸能が普及したのだろう。

しかし、21世紀にもなると、我々は充分食べられるどころか、食料やものが余るようになっている。少しでもものが不足すると騒ぎたてるが、本来はそのようなものが無くても生きていけたはずである。それに、ものが十分あるのに生産を続けるために、処理する必要ができて、広告を出してまで処分しなければならないことになる。もしものが不足していれば、広告やマーケティング戦略などは不必要であろう。

ビジネスの世界では、ものを買ってもらわなければならないので、新製品とか、新技術開発品とかいって、購買を喚起しなければならない。これが、消費者が望むと望まないとにかかわらず、どんどん進んでいく。

テレビも、アナログからデジタルに変わったが、本質的には変わっていないようだ。画面がクリアだとか、視聴者が番組に参加できる、とかいうが、我々が求めているのは、放映の内容である。その意味では、アナログであっても変わりないことであるから、私にとってはあまり意味がない。それよりも、アナログの受像機がゴミになる方に、腹を立てている。

それと同じで、ビデオカメラにも腹が立っている。8ミリフィルムの映写機からアナログのビデオカメラになったのはよいとしても、それがまた短期間でデジタルのものに変わってしまった。おかげでそれまでの関連機器は使えなくなり、ゴミになってしまった。だから、もうビデオカメラなどは買わない事にしたのである。

カメラ、携帯電話等なども、どんどん新しいものがでてくると、ゴミが増える一方である。また、それらの製品をつくるためのレアアースが不足するとか、豊富に持っている中国が出し渋るとかで大騒ぎするが、考えてみると滑稽である。われわれ素人考えでは、不足しているといわれるレアアースなど、消費大国のゴミの山に埋もれているはずである。

若い内は、自分達もそうしていたように、より新しいもの、便利なものを求めて、それでより満足するのも仕方ないだろう。しかし、先が見えてきた高齢者になれば、満足するにしても、異なる方法を考えるべきだろう。

若い内は自分をより高め、他者に負けないように努力することも、当然だろう。だが、高齢者はそろそろこれを卒業して、他人のこと、国の事、世界の事、地球の事を考えるようにならなければならないのではないだろうか。つまり、他人、国、世界、地球のためになるような生き方をすることによって、自分が満足できるようにするのである。

さらに、地球温暖化による異常気候を抑制することや、世界でいま起こっている戦争や宗教間の争い、貧困による飢餓などなどに、少しでも役立つようにすることであろう。大したことはできないが、そうしなければならないことは、誰もが思っていることだろう。そう思っていれば、機会があればするだろうし、自利と他利、つまり自分とその他の、二つの道を選択する場合に、その他のための道を選ぶ可能性は増えることだろう。

合気道を修行していれば、合気道の教えを事あるごとに伝えることもよいだろう。人はみな家族であるということを、稽古で示し、それを伝えればよい。人はすべて家族であるということが分れば、他のみんなも一生懸命に生きているのが見えてくる。

すると、愛が生まれるはずである。愛が生まれれば、争いも少なくなるはずである。宇宙を創造した創造主は、宇宙楽園、地球楽土の建設を目指して、各人に分身分業で生成化育をされている、といわれる。宇宙の創造主にお会いしたわけではないが、そのような目で世の中をみると、どんな人も動植物もみんな、そのために一生懸命にがんばっているように見えてくる。

合気道の稽古が続けられるだけでも幸せである。合気道を続けられるということは、いろいろな条件に恵まれている、ということである。経済、健康、家庭の理解、衣食住などなどに恵まれている、ということである。それだけでも、十分満足であることを知らなければならない。

あとは、他人や宇宙のためにお役に立って、満足することだけである。