【第369回】 そろそろ魂を表に

今はまだまだ物質文明、力の世界、魄の世界である。合気道は、この魄を土台にして、その上に魂の世界をつくっていかなければならない、と教えている。これまでの表にある魄を、魂が表になり、魄が裏になるようにするのである。

価値基準、価値判断が、モノ、力、見栄え、ではなく、心、気持ち、何か見えないモノ、等になるということだろう。

今の世の中ではまだまだ難しいように思うが、自分だけでも、何とか魂が魄の上になるように生きることができないか、考えていきたいと思う。少なくとも合気道の稽古では、魄が遠慮して、魂が表になるような稽古をしたいと願っている。

魂が魄の上にくる稽古は別に書くことにするが、今回は、自分が高齢者として、魂が魄の上になる生き方をどのようにしているのか、を見てみたいと思う。年を取ることによって、モノの見方や考え方、特に価値基準が、自然に変わってくるようである。

まず、子供たちがすばらしいと見えるようになったことである。以前は、子供たちの顔など興味なかったし、うるさいとか邪魔だとか、ネガティブに見ていた気がする。今では、親と一緒に散歩したり遊んでいる子供の顔は輝いていて、何にも代えがたい最高のものと思える。この子供たちの笑顔(魂)は、万金(魄)にも代えられないものだと思える。

また、若いころは若い女性、それもいわゆる美形、美人(魄)に価値基準を置いていたが、最近はどうやら心や気持ち(魂)の方に価値を置くようになってきたようだ。つまり、美人よりも、気持ちのよい人の方がよいと思うようになってきたのである。

若いころと違うのは、金持ちや物持ちをうらやましく思わなくなったことである。金持ちや物持ちの気持ちはこちらには解らないが、分相応にやるのがよいと思う。彼らと比べれば貧民かもしれないが、自分で満足していれば、それが一番である。金持ち、物持ちには、我々にはない楽しみもあるだろうが、我々にはわからない問題もあることだろう。平均すればみな同じ、ということになると考えるし、それが世の常のはずだろう。

シャンペンも飲まず、キャビアも食べることなく、イワシの干物だけしか食べられないとしても、それに満足して生きている顔には、金持ちもかなわないかもしれない。人が満足しているかどうか、どれぐらい満足しているかは顔に現れるから、満足度は大体わかるようである。

道場には多くの人が集まって稽古をしているが、彼らがどんな日常生活をしているのか知らないし、知ろうとも思わない。金持ちであろうが貧乏人であろうが、関係ない。関係あるのは、自分の稽古にとってプラスになるかどうかということだけである。もちろん、負のプラス、つまり反面教師というものもある。

モノを集めること、買うことには、だんだんと興味がなくなってきている。以前は、欲しいと思うものは無理してでも買ったし、モノを集めることを楽しんだりもした。だが、最近は、どうしても必要なものだけをたまに買うだけである。その買うものは、自分の生きていくための知恵を与えてくれるもののようだ。衣類などもあまり買わないので、女房が買うのだが、買うモノが大事なのではなく、買ってあげるという心、相手を思いやる愛が大事なのだから、愛に感謝しながら、遠慮なく買って頂くことにしている。

これからは、ますますモノよりも、心を大切にするようにしていきたいと思う。残り少ない年月をそのように生きたいものだし、合気道の稽古でも、魄から魂の稽古に移していきたいと願っている。少しずつでも、魄が後ろに隠れ、魂が表に出てくるようになればよいと、期待しているところである。