【第363回】 不安とあきらめ

合気道の稽古を長年やってきて、ひとつ残念に思うことは、長年稽古をしてきた稽古人が、体もまだしっかりしていて動けるのに、稽古を止めてしまうことである。経済的な理由や引っ越しなどの境遇変化の理由なら、稽古を続けられないことだろうが、止める外的理由がないのに止めて行くのは残念である。

半世紀も稽古を続けていると、多くの知人や稽古人達がやめていくのを見聞きするものだ。その人たちが止めて行った理由も分るような気がする。また、稽古している人達を見ていても、この人は近いうちに恐らくやめていくだろうとか、長く続かないだろうなということも見えてくる。

一般的に人は死ぬのが嫌なものだろう。生きたいと思って生きているはずであるから、死刑というのが最も重い刑罰になるのだろう。なぜ生きたいのか、死にたくないのかを考えてみると、人は明日、来年、10年後・・に何かあるだろうと、明日に期待しているから、明日も生きたいと思うのではないだろうか。

世の中は確かに毎日、毎年、目に見えて変革し続けている。人類の5,6百万年の間、ずっと変わってきたし、明日以降も間違いなく変わっていくはずである。

しかし、人間では事情が少し違うようだ。人間も日々刻々変わっているはずだが、人の場合は、自分が変わっているかどうかを自分で判断する。つまり、自分が変わったと思えば変わったのだし、そうでなければ変わらないということになる。

しかし、人は意識的にも無意識にも、変わりたい、成長したいと思っているのではないだろうか。成長がない、また、変わっていかないと、人は本当には満足できないように思われる。

稽古でも、技や動きが去年や数年前から変わらないと、来年も数年後も変わらないだろうと思えて、稽古の先が見えてしまうことになる。先が見えるということは、先に期待できないし、希望がないということになる。それで、稽古を続けることに対して不安になり、稽古を止めようか、ということになるのではないだろうか。

高齢者になれば、生きることでも同じではないだろうか。去年と今年に違いがなく、なにも変わらないと思うようになったら、注意した方がよいだろう。生きて行く上で、来年、再来年、10年後も今と変わらないだろうと思うようになれば、生きていく気力も弱くなることだろう。

だから、稽古は少しでも上達するようにやらなければならない。紙一重でも上達すればよい。たとえ紙の千分の一、万分の一でもよい。要は、ゼロでなければよいのである。毎回、少しでも上達すれば、明日が変わり、一年後、数年後が変わると思えて、明日が楽しみになる。

それに、他人と比較するものではない。自分が大事である。他人は身体能力に優れていたり劣っていたり、力があったり無かったり、いろいろ違っているわけだが、それはあちらさんのことで、こちらがとやかくいうことではない。こちらが中心(天の御中主)になって、かれらから優れたものを得たり、反面教師で学べばよいのである。

稽古で自分を変えていくことができれば、生きていくことでも自分を変えていくことになるだろう。また、変えて行こうと思うはずである。

稽古でも、生きて行くことでも、少しずつでも変わっていけば、次回の稽古や明日が楽しみになるはずだ。今はできないが、5年後、10年後にはできるようになるのではないかと、明日が楽しみになるだろう。それに、やるべきことがどんどん出現して、時間が惜しくなるし、少しでも長生きしなければ、と思うようになるものだ。

不安とあきらめに陥らないように、明日が楽しみになるよう、稽古していきたいものである。