【第36回】 無報酬の報酬

若いうちは、自分や家族のために一生懸命働くものだ。働くのはお金を稼ぐためである。そのお金で自分や家族の生命維持をはかり、社会生活を営み、やりたいことをやり、自分達の成長をはかる。労働の対価の報酬としてのお金は大切である。

定年退職した高齢者の多くは、退職後も働きたいと思うようだ。生活のためにお金が必要で働かざるを得ない人もいるが、若いときからの労働を全うできた人なら、退職金や年金で生活のためのお金は心配ないだろう。

高齢者で生活のためのお金に心配ない人が、定年後、またお金を稼ぎたいと考えるのは寂しいかぎりである。もう十分、自分のためや家族のために働いてきたのだし、生活の基盤もできたのなら、お金を稼ぐこともないだろう。残る時間はそれほど多くはないのである。

今や定年を迎えても60歳から65歳であり、平均寿命まででも約20年あって、ふつうはまだまだ健康で元気な年齢である。人が体を動かして、まだまだ働きたいと思うのも当然かもしれない。

しかし、人は誰でも、生きたという実感を持ちたいと思うはずだ。高齢者となってその実感を持つためには、自分のやりたかったこと、やりたいことをやること、それに、他人のためになることをやることである。その時にお金の報酬を期待すると、これまでの働き方と同じになってしまう。そこにはもはやロマンはなく、何かを達成したいう実感もあまり湧かないのではないか。

従って、高齢者の働きは無報酬でできればいい。しかし、無報酬ということはお金とは違う、もっと貴重な報酬が得られるはずである。なぜなら、その働きは人のためにもなるが、結局は自分のためになるはずだからである。また、そうでなくてはならない。報酬を目的でやれば、報酬を多くすることが目的になってしまうものだ。それでは、無理をしてしまうし、本来、自分がやろうとしている目的から免脱するし、本来の目的の追求も難しくなってしまう。本当にやりたいことは無報酬でできればいい。無報酬の報酬こそ最高の報酬であるはずだ。