【第358回】 いったことはやる、やったことは説明できる

人生の最初も、まわりの真似から入っていくものだが、真似してきたものに長年携わりながら年を取ってくると、真似するものが無くなってきて、自分で独創していかなければならなくなってくる。

合気道の稽古でも、はじめは先生の真似からはじまる。少しでも先生のようになろうと、動きや姿勢、技づかいを先生に近づけるべく真似るのである。

しかし、長年稽古を続けてくると、真似させていただいていた先生方や先輩が次々と亡くなって、真似することができなくなってくる。そうなると、監視の目もなくなり、遠慮する必要もなくなるので、自分の思う通りにできるようになるわけだが、これがまた難しい。

心からこの先生に教わろうと思うと、一挙手一投足をまねなければならないので、緊張する。制約もあるし、時には叱られたり、真似ている先生の目を意識して稽古するので、これは大変だと思っていた。だが、真似する方から離れてはじめて、自由で何の制約もなく、思い通りにできる稽古が、それとは桁違いに大変なことがわかってきた。

自由で自分の思うままにやってもよいとなると、何をどうやればよいのか分らなくなる。人はある程度の制限や義務などに拘束される方が、ものごとをやりやすいようだ。例えば、定年になって、時間を自由につかえるようになると、かえって何をどうすればよいか、分らなくなってしまうだろう。

真似する方々がなくなり、自由に稽古をするためには、自分で稽古のやり方を見つけていかなければならない。自由にやるということは、何でもやってよいということではない。自由ということは、何かの支点や対照、つまり制限に対しての自由であるはずだ。自由の自由などない。不自由や自由でないものがあるから、自由があり、意味があるはずだ。

上達するために自由に稽古するには、自由のための条件が何かあるだろう。誰にも何もいわれず、自由にできるのはよいが、自分の考えをいい、自分が善し悪しを判断していかなければならなくなる。そのためには、自分が上達していくための判断の基準が必要になるだろう。

判断基準は人によって違うだろうが、私の判断基準は「やったことは説明できる」、また、これはこうだと「いったことは技でできる」ことである。やることも自由、やり方も自由であるが、説明がつかないものは、間違いであり、意味がないと思うし、自分がいったことが技で示せなければ、いったことが間違いか、または、未熟であると考える。合気道の技は宇宙の条理に則っているので、法則性があるはずだし、理合があるはずである。

真似から次の稽古への上達のポイントは、「やったことは説明できるように」、そして「いったことは技でできるように」を自分に言い聞かせて、稽古に精進することにしている。