【第357回】 礼を失しない

年を取ってくると、それまで余り気にしなかったことが気になってくるが、その一つに「礼」がある。

合気道のおかげで、「礼」の重要性を学ばせて頂いた。開祖をはじめ、すばらしい先生や先輩から「礼」を教えて頂いた。有川先生からは非常に具体的に、武道としての「礼」とは敵をつくらないためである、と教えられた。

日本の武道は礼にはじまって礼に終わるといわれるが、敵をつくらないため、と考えても納得がいく。

合気道の道場では、道場に入る際と出る際、稽古をはじめる際に礼をする。そして、相対稽古で技の練磨に入る際と終わる際にも「礼」をする。相手が子供であろうが、初心者であろうが、「礼」をする。

相手が先輩や上級者の場合は、教えてもらったり導いてもらったことに対しての「礼」であり、自分より下の相手に対しては、こちらのかけた技の受けを取ってくれたこと、一生懸命に稽古をしてもらったこと、お陰で発見があったり上達させてもらったこと、へたな技で痛い目に合わせたり不愉快な思いをさせてしまったことなどのために、「礼」をすると考える。自分が相手より強いとかうまいからといって、「礼」をしなくてもよいということにはならない。

極端にいうと、もし稽古相手がいなければ稽古にならないわけだから、相手をしてくれる人がいるだけでも有難いことである。従って、稽古相手に対しては「礼」をすべきなのである。

スポーツや勝負のある武道では、「礼」が軽視されているようだし、それがますます軽視されてきているように思える。勝てば官軍で、勝てばよいのであれば、「礼」は二の次になるのだろう。

勝負をする武道では、「礼」を重視し、「礼」の世界での勝負を続けているのは相撲であろう。勝負の前はもちろん、勝負が終わって勝敗が決まっても、淡々として互いに頭を下げて「礼」をし、土俵を下りる。

スポーツは勝敗が決まると、勝者はガッツポーズをとったり、飛び上がったりして喜びをあらわすのがふつうである。しかし、それを見ると、残念に思ってしまう。

なぜ、残念かというと、「礼」を欠いているからである。まずは、対戦相手に対して「礼」を失している。相手も一生懸命に稽古して、精一杯戦ったのである。自分が勝てたのは、ただ自分が優れているからではない。勝つためには、能力と努力、それに運が必要である。勝てたのは、運が良かったからかもしれない。能力も努力も、運に大いに関係しているはずである。負けた相手は恐らく、もう一度勝負すれば今度はきっと勝つと思っていることだろう。「礼」を失すれば、その気持ちはさらに激しいものになるだろう。

次に、勝負を見ているものに対しても「礼」を欠く。見る人は、どちらが勝つかよりは、どのような戦いをするかに興味があるはずである。自分の身内や地域や国の人が勝負をすれば、勝負内容よりも勝ち負けが大事であるかもしれないが、勝負を公平に見る場合には、勝負の最初から最後までの舞台の展開である。「礼」に始まって「礼」に終わるまで、である。そして、大体において、「礼」を重んじている方を応援することになるものだ。

武道であるはずの柔道も、スポーツのように勝利してガッツポーズをしたり、飛び跳ねているのを見ることがあるのは、残念に思う。柔道を創始された加納治五郎先生が見ると、嘆かれるのではないだろうか。他の国がやっているからやるではなく、本家である日本が率先して礼を示していくべきだろう。

東京オリンピックで、柔道の試合をテレビで見た時のことを思い出す。無差別級の決勝で、オランダのヘーシンク選手と日本の神永選手が対戦し、ヘーシング選手が神永選手を破った時、チームのオランダ人関係者が興奮して畳の上に上がろうとしたが、ヘーシンクに手で制止された。試合場の「礼」を心得ていたのである。

「礼」を欠いたものは、武道でもスポーツでも、いずれ消滅していくだろうと考える。「礼」を失すれば、敵をつくったり、争いを誘発することもあるが、宇宙の意思、宇宙楽園建設のための生成化育に則っていないからである。

特に、武道とは宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、守り育てることである。平和を乱すもの、森羅万象を正しく生産しないもの、守り育てないものなど、宇宙生成化育を妨げるものは取り除く役目がある。だから、その妨げるものになってしまっては、意味がないのである。

サッカーの試合など、試合後に怪我人や死人のでるような争いが起きるのも、根本には「礼」を失しているからだと考える。お互いに「礼」をつくし合い、ガッツポーズなど取らずに、合気道や相撲のように「礼」に始まって、「礼」に終わるように、「礼」をつくすようにならなければならないのではないかと考える。

合気道でも、対岸の火事と見ずに、気を緩めず、「礼」を失しないようにしていかなければならない。