【第353回】 信じていくしかない

古希を過ぎると、世の中の多くのことを分かっていないことに気付いてくる。分かることに比べて、分からないことの方が断然多いし、分かっていることなど、それに比べるとごく僅かなようである。

学校で数学や科学などを学び、学生の頃や若いうちはそれで多くの知識を得たつもりになるものだが、今にして思えば微々たるものであったと思う。

学校や世間から教わることは、正しいと検証されたものや、世間が合意したものであろう。科学的に証明されない不確定なものや、世間的に同意のないものは、その対象外におかれるので、学校や世間で教わることはそれほど多くはないことになる。なぜならば、世の中には世間がまだ同意してない不確定的なものが多くある、というより、それがほとんどである、と言ってよいだろうからである。

例えば、いつも考えている「どのようにして、何もないところから宇宙ができ、万有万物が創造されたのか?」「何ものが何のために宇宙や人やものを創造したのか」「自分は何者なのか?」「人はなぜ、生まれては死んでいくのか?」「人はなぜ一人として同じ人はいないのか?」などなどである。このような肝心なことは、学校でも学習塾でも家庭でも教えてくれない。

合気道においても、技の形を覚える形稽古のうちはいいが、体ができ、形をひと通り覚えると、自分が何も分かってないことが分かってくる。「合気道とはなにか?」「合気道の稽古とはなにか?」「合気とはなにか?」「気とはなにか?」等などである。

このようなことが分からなければ、先へ進めないので、勉強しようと思ったら、開祖の言葉がまとめられた書籍を見たりすることになる。だが、少しくらい見ても理解できないだろうし、たいがいは途中で放り出してしまうことになるだろう。

その難解さにめげずに、何度も挑戦し続けると、次の障害に突き当たる。それは世間一般がまだ完全に認めてないような思想や哲学で、合気道が説明されていることである。

例えば、一元の大御神が、精神とものの本となる二元の神をつくり、宇宙楽園建設のために万有万物を創造し、生成化育をしているし、そのために人は使命をもち、分身分業である、等といわれているのである。

開祖がご健在のときは、開祖の思想・哲学は、開祖自ら技や行動で示されたので、それは科学となり、誰も異を唱える者はいなかったわけである。つまり、開祖は、いつでもどこでもそれを技や行動でお示しになれたのだから、科学の定義に合っているわけで、科学であるし、少なくとも開祖にとっては科学となっていた。

人は、見えるもの、自分で検証できるものを信じる。そして、それを科学的であり、間違いないとしている。

合気道も、開祖がいわれるように科学である。精進する技には法則があるし、理合があるからである。逆に、技に法則性と理合がなければ技にならないのだから、科学であるともいえるだろう。

先ずは科学の稽古をしなければならないが、上級者になればこの先の稽古をしていかなければならない。科学的には説明できない、科学を超えたものである。例えば、日月の気を取り入れたり、天地の呼吸に合わせたり、宇宙との一体化など、世間の人が聞いたら、信じないだろうし、もしかすると頭がおかしいと思われるだろう。

しかしながら、世間にはまだ科学と認められていない学問もある。例えば、宇宙の学問は宇宙学とはいわず、宇宙論といわれるそうである。(村上陽一郎 科学史家・科学哲学者)つまり、今のところは宇宙の学問はまだ完全に科学とまではいかないが、いずれ科学と認められるはずであるというので、宇宙論としているようである。

合気道に精進するものは、開祖がいわれていることを稽古しなければ、開祖に近づくことはできないし、合気道ではなくなってしまうだろう。開祖がいわれていることを疑わないようになるためには、開祖のいわれていることをすべて信じることである。科学的であろうがなかろうが、信じてやるしかない。科学を信じるように、信じるのである。

合気道で開祖がいわれていることも、科学となるには後どれくらいかかるか分からないが、数百年、数億年後には科学であると確証されるのではないかと思うのである。開祖を信じ、合気道を信じていくしかないだろう。