【第350回】 思ったら吉日

古希を過ぎると、少し大人になってきたようにも思える。大先生がかつていわれたように、50,60歳はまだまだ何も知らないはなったれ小僧であった。大先生から聞かされた時は、まだ鼻っ柱が強いだけの学生だったので、俺はいろいろ知っている大人だぞ、と心の中で反抗したものだ。

だが、年と共に、まだ何も知らないということが、よく分かってきた。最近になっても、まだまだ多くのことを知らない、というよりも、世の中のことはまだほとんど知らない、ということを、ますます実感している。いうならば、これが大人の印の一つと言えるだろう。

はなったれ小僧から大人の世界に入ってくると共に、若い人や後進の考え方や悩みや問題が見えてくるようになった。自分の通ってきた道だから、よくわかるのだろう。

合気道の後進にも、いろいろな問題や後悔などがあるようで、相談を受けることがある。彼らの問題に共通していることの一つに、やろうと思ってやらなかったり、やるのを伸ばしてしまっていることがある。

合気道家が後悔する典型的なことの一つに、「もっと早く合気道を始めていればよかった」ということがある。人にはいろいろな事情があって、始めようと思ってもすぐにはなかなか始められず、何カ月も何年も延ばし延ばしにしてしまうようだ。

合気道を知り、興味をもったら、それは縁であり、自分のためのチャンスである。チャンスが与えられたわけであり、そのチャンスを掴むかどうかということになる。チャンスを掴む人は、即入門するだろう。入門してから、それからを考えればよい。やってみなければ、よいかどうかはわからない。ちなみに私の場合は、合気道という言葉を小耳に挟んで即、本部道場を訪れた。そして、稽古をちょっと見せてもらって、即刻、入門した。もっと早く合気道があることを知っていればよかったかも知れないが、そんなことは自分で決められることではないので、後悔などしなくても済んだ。

合気道の仲間や後進、それに道場以外の友人、知人からも、あれをやりたい、これをやりたいといいながら、それをやらなかったと後悔することをよく聞かされる。ますます忙しい世の中になり、やりたいことはどんどん増えるものの、できることは少なくなってくる。難しいようだが、やりたいことはできるだけやった方がよい。やりたいことをやらないと、後できっと後悔するだろう。死ぬ間際に、あれを食っておかないで残念無念と、後悔したくはないだろう。

しかし、大きなことに取りかかるのは、容易ではないだろう。だから、小さくてもやりたいことを、ひとつひとつやり遂げていく習慣をつけるのがよい。どんな些細なことでも、自分がやりたいと思う事、例えば、あれを食べたいとか、あそこに行ってみたいとか、あの展覧会を見たい、等などからはじめればよい。つまり、やりたいことを素直に認め、そのやりたいと思ったことを即やるのである。思いたったら吉日、である。それを逃せば、次の吉日が来るかどうかもわからない。経験上、ほとんどの場合に、その吉日は二度と来ないようである。

思ったら吉日、を稽古で言えば、間髪を置かない、間を置かない、ということである。技をかけるのも間を置かず、遊びを失くす、ということになるだろう。「思いたったら吉日」で生きていけば、間を置かない技、間が抜けない技が、つかえるようになるのではないかと思う。

あとで後悔しないように、「思いたったら吉日」で生き、そして、間が抜けない技をつかうようにしたいものである。