【第342回】 体の節々をときほごす

合気道は技の練磨によって上達していくが、そのために、合気道の技の形を繰り返し々々稽古する。主に、基本の技の形、一教から五教、四方投げ、入身投げなど、それほど多くはない形を稽古するのだから、一つの形だけでも数万回、数十万回とやっていることになる。しかし、これで十分であると思うどころか、まだまだ形の稽古をしなければならない、と思うものである。

その最大の理由は、技の形を繰り返し稽古していくことで、「技」が身についてくるからである。合気道の「技」は、宇宙の条理に則っているので、「技」が身につくことによって、宇宙の法則に従った心体になり、宇宙の営みと一体化し、そして、合気道の究極のゴールである宇宙との一体化が可能になるのである。

そのようなゴールに辿り着けるという保証などないが、技の形を繰り返し稽古することによって、少しでもそこに近づこうとしているわけである。

技を繰り返し稽古するもう一つの理由は、体をつくることである。宇宙の営みにマッチする技使いをするためには、そのような体ができていなければならない。体もすぐには理想のものができないのだから、時間をかけて作り上げていかなければならないであろう。

天賦の体をもつ人は別だが、われわれ凡人の体は、なかなか思うようには作れず、そうこうする内に年を取ってくるものである。

若くて元気な頃は、相手を投げたり抑えることに一所懸命であった。そのためには、相手にこわされない、相手の力に負けない体にすることが、目標であった。若い頃は、このような稽古によって、体ができていた。しかし、今になって、この体つくりは不完全であったことが分かる。

「合気道の技の形は、体の節々をときほごすための準備です」と、開祖は言われている。合気道の形稽古で、体の節々をほごしていきなさい、ということである。相手を投げたり抑えたりしているだけでは駄目だ、ということなのである。

これに気がつくのは、年を取ってきて、自分の体に気をつけるようになってきてからである。若い時は、形稽古を一所懸命やることによって、体の節々がときほぐれていたので、投げる抑えるが主であり、体が従であった。だが、年を取ってくると、体の節々をときほごし、体を柔軟にすることを主とし、相手を倒すことは従でよいのではないか、と思うようになる。

年を取ると、体の節々にカスがたまり、どんどん固まってくる。それも腰、背中、肩と体の中心から固まってくるようだ。

体の節々をときほごすには、合気道の形稽古が理想的であろう。とりわけ受け身がよい。受け身をしっかり真面目にやれば、マッサージサロンに通うより効果があるはずである。特に、一教から五教などの抑え技の受けを、極限までやるのがよい。

相手を極限まで伸ばしてやり、また、自分自身も極限まで伸ばすようにすることである。ここで大事なことは、息に合わせてやることである。つまり、息を吸うときには体は柔らかくなるので、息を吸っているときに伸ばすのである。

また、愛でやらなければならない。つまり、相手の立場と相手のためになるように、やることである。愛があるかないかは、相手にはわかるものである。愛があれば、その時に多少いたくても、相手は自ら極限まで我慢するだろう。