【第34回】 理に適ったことをする

若いうちは力いっぱい稽古をするのがいいだろう。先輩や体が大きくて力のある相手とやるには、力と気力を使うしかない。当時、開祖も力いっぱいの稽古をしていれば、なにも言われなかったが、ああでもないこうでもないなどと言いながら稽古をしたり、軽く打ったり、軽く掴んだりしてぽんぽん受け身を取る稽古を見つけられると、「そんな触れたら飛ぶような稽古をするな。」と激怒されたものだ。

若いうちは、力いっぱい稽古すれば力もつくし、体力、気力が養われる。合気道は合気の体ができなくては、合気道の奥へ進めないのだから、これは必要なことである。

高齢者は若者のときのような力も体力もないはずであるが、時としてそれがまだあると錯覚してしまい、パワーの稽古をしてしまうようだ。高齢者が真っ赤な顔をして、自分の体制を崩してまで相手を倒そうとするのはあまり感心しない。それに、そんなことを続けていると肩を壊し、腰や膝を痛めてしまう。(体のどこかが痛いとか、動かなくなるというのは、体の使い方が間違っているという体からのメッセージである。)

若いうちはどうしても相手を倒したり、投げることを目的としてしまう。しかし、相手が倒れるのは、正しいプロセスを踏んだ結果であって、そのプロセスが間違っていれば、あとはパワーで倒すしかなくなる。

高齢者はパワーや体力がなくなるので、プロセスに重点をおくべきである。正しいプロセスは、理に適ったものでなければならない。例えば、諸手取り呼吸法である。こちらの片方の手(腕)を相手は二本の手、諸手で掴んでくるので、本来は物理的にはこの手は上がらないはずである。もし、上がるとしたら相手がよほど弱いか、受けを取ってくれるからである。相手の諸手を制するには、これより強いものを使わなければならない。それは、一般的には"腹"といわれているが、胴体である。どんなに太い腕でも胴体より太い腕はない。このことが分かれば、あとは自分の胴体を使う稽古をすればいい。そうすると手の出し方、肩の貫き方、胴体から手先への力の伝え方等など、やるべきことはいくらでもあることが分かる。それを一つ一つ身につけていくのである。 

今、出来なくともいい。理に適ったことを正しくやっていけば、いずれできるようになるはずである。焦らず、そのうち出来るようになると信じて修練すべきであろう。