【第327回】 どこまで行くか、どう変わるか

稽古事に、これでいいという終わりはない。しかし、気持はそうでも、肉体的な限界があるから、いつか必ず終焉を迎えることになる。有難いことなのか、悲劇なのかは分からないが、終焉の来るのは分かっていても、いつ来るのかは分からない。

見方によっては、どうせいずれ間もなく稽古ができなることが確定しているのに、汗をかきながらしんどい思いをして、やらなくてもいい稽古に励んでいるのは悲劇と言えるかもしれない。しかし、それでも稽古に励むところに、稽古人として、そして人間として生きる上で意味があるのかも知れないし、それがロマンなのだろう。どうせなら、ロマンに生きたいものである。

こんなことを考えるようになると、高齢者の仲間入りということになるのだろう。そうなると、稽古もそれまでとは多少変わってくるようである。一番変わったのは、以前は他人を意識した稽古をしていたことである。稽古相手に負けないよう、相手をなんとか投げよう抑えようとすることに一生懸命になっていた。

それが、稽古相手は倒す対象ではなく、自分の稽古を手伝ってくれる、いわゆる分身であると考えるようになった。だから、稽古を相手してくれることに感謝し、相手のためにもなるよう、また怪我をさせないよう、不愉快な気持ちにさせないようにと、相手を大事にするようになる。

つまり、以前の稽古の目標は他より少しでも強くなろうとしていたのに対して、自分を少しでも上達させることに変わったのである。他人や稽古相手が強かろうが弱かろうが、うまかろうが未熟であろうが、関係なくなってくる。大事なことは、自分が上達することになる。

上達するということは、合気道の求めている目標に少し近づくことである。そのためには道、つまり、「合気の道」に乗っていなければならない。そして、その道を進まなければならないことになる。

終焉は間違いなく近づいてきている。だが、少しでも今日の稽古で変われれば、明日も変わるだろうし、一年後は大きく変わっているかもしれない。道に外れないよう、明日を楽しみに、来年、また10年後を楽しみに、一瞬一瞬を大事に道を進まなければならない。

道を一生懸命に進んでも、どこまで辿りつけるかわからないが、自分がどこまで行くのか、どう変わるのかを楽しみに稽古を続けていくべきだろう。