【第323回】 無 欲

若い頃は、あれが欲しい、これが欲しいとか、ああなりたい、こうなりたい等など、多くの欲望があったと思う。若者だけではなく、人間は欲望の塊であるといってよいのかもしれない。もちろん欲望のない人間などいないだろうし、欲望のない人間は多分おもしろくないだろう。幽霊だってまだ欲望があるのだから、人に怖れられたり、注目を集めるわけで、欲望が全然なけれなければ、ただの霞みたいで、誰も注意を払わないだろう。

若い頃の欲望は、希望でもある。将来を期待する希望である。若い時はいくらあってもよいだろう。ただ、あまり多いと自分が押しつぶされてしまったり、自分が消えてしまうので、注意しなければならない。

現在は物質文明に生きているので、欲望は「物」や「金」や「名誉」などの「モノ」を追い求める傾向にある。これらには、これでよいという限界がないので、それらに対する欲望は限りがないことになる。

また、人は「モノ」だけでは決して満足できないという習性をもっているようなので、「モノ」だけ潤沢に所有しても満足できないはずである。「モノ」が豊かになったおかげで、それに気がつく人が増えてきているようである。

「モノ」は大事である。これは別の言葉で「経済」といえるだろう。開祖でさえ、人が生きる上、合気道の修行の上でも、「経済」は基本であるので、大事にしなければならないといわれていた。確かに、どんなに偉そうなことをいっても、経済が貧しく、お金がなければ食べていくこともできないし、稽古どころではないだろう。

問題は、ほどほどであればよい「モノ」(経済)を、際限なく増やそうとする欲望である。今の世界、世の中では、金のたくさんある者がこれをやるから、多くの地球規模的な問題を起こしているといえよう。

開祖は、この「モノ」の魄の世界から、「こころ」の魂の世界に切り替えなければならないといわれている。これが、われわれ合気道稽古人のミッションでもある。難しいミッションではあるが、少しでもその方向に転換するようにお手伝いしたいものである。

このミッションは、まだまだ多くの欲望をもち、その欲望のために戦っている若者には難しいだろうから、欲望がずっと減退し、「モノ」への執着が少なくなってくる高齢者が先頭に立って進めるべきだろう。

大仰なことはできないが、できるとしたら「モノ」への欲望を捨て、合気道の精進以外に対しては無欲になって、無欲の稽古に専念することだと思う。

いくら一生懸命に稽古をしても、お金になる訳でもないし、名誉にもならないし、有名になるわけでもない。そういう無欲の姿を示すことが、魄の世界を魂の世界に変える合気道の使命ではないかと考える。また、そうしなければ、合気道の精進はできないはずである。

開祖は「一つの道を貫くためには、他のことには無欲になって進まねばなりません。無欲になった時こそ絶対の自由となるのであります。世の中はすべて無欲の者の所有となるのであります」(「合気真髄」)といわれている。