【第321回】 合気道と高齢者の役割

現代もまだまだ物質文明の世の中である。力のあるものが牛耳る社会である。これは西洋文化、若者文化といえよう。

合気道も、まだまだこの傾向にある。体力がある若者が幅をきかせて、体力が衰えてきている高齢者は遠慮していたり、腕力や体力があるものがない者を制す、ということがみられる。

合気道をつくられた開祖は、力は必要であるが、その力を心や精神で制御し、先導しなければならないといわれた。いわゆる、魂が魄の上にくることである。

おそらくどこの道場でも、高齢者がみんなと一緒に稽古をしていることだろう。稽古を長く続けている古株もいるだろうし、最近入門した高齢者もいるだろう。誰でも自分のために一生懸命に稽古をしているわけだから、それでよいのだが、高齢者には合気道において役割があるように思う。力のある若者も、何かを高齢者に期待しているのではないだろうか。

いつか高齢者になるのは、若者でも同じである。いずれ若者もこの道を辿るわけであるから、若者でも関心があるはずだ。

高齢者は人間の可能性や弱さ、年を取る姿や姿勢を見せてくれる。若者はそれを見て、自分もこうなろうとか、ああならないようにしようと思うはずだ。

また、若者も時としては迷うはずである。どのようにすればよいか、どう生きていけばよいか、何を目標にしていけばよいか等で迷った時、長く生き、若者に比べると経験豊富な高齢者に学ぶことは、多々あるはずである。

若者が高齢者に期待しているのに、それに応えられなければ、若者の失望を招くことになる。

高齢者の役割を果たすためには、まずは一生懸命に稽古をすることだろう。己を捨てて、稽古することである。会社のこと、家庭のこと、社会の雑事を忘れ、稽古に没頭することである。己を捨てて稽古や仕事をする姿は、美しいものだ。

また、高齢になってもさらなる挑戦をする姿は若者に感銘を与えるはずだ。若者や後輩は、年取ってもそのように一生懸命に稽古しようと思うことだろう。

高齢者の次の役割は、心・精神の魂(こん)が、体力の魄の上になるような稽古をすることであろう。例をあげると、若者の力や体力やスタミナでは敵わないところを、心・精神の気力でやるのである。触れれば切れてしまうような、真剣の気魄である。

この気魄で技をかけるのだが、そこに愛がなければならない。稽古は相手を痛めるためにやっているのではなく、厳しくとも、相手にダメージを与えないようにしなければならない。その上、自分の稽古になるだけではなく、相手にも恩恵を与えるのでなければならない。相手のことを考えることが、愛である。

固め技で関節を絞める場合も、相手の関節が少しでも伸び、柔軟になるように、願いながら絞めていくのである。これは、若いうちは難しい。どうしても自分本位で、相手構わずやってしまうものだ。

若いうちの稽古は、力の稽古である。体と力を目いっぱいに使う、パワーの稽古である。年を取ってくると、体力も力も衰えてくる。自分でも限界がわかってくるので、無理をしないようになる。無駄な力を使わず、必要なときに力を集中するようになる。動きもできるだけ、無駄な動きがないようにする。

そうすると、技というものが少しずつわかり、理に合った稽古、理合の稽古ができるようになってくる。そうなると、若者の無駄な動きや理に合わない動きが、見えるようになってくる。それを見てやるのは高齢者の役割だろう。

必要であれば、注意してあげるとよいが、本人が満足しているのなら、お節介をやくこともない。自分で気がつけば、高齢者たちの理合の稽古を見て、必要なことを「盗む」か、聞きにくるだろう。高齢者はいつ、何を聞かれても、答えられるようにしておかなければならない。

若者に、高齢になることが楽しみであるような、高齢者にならなければならない。若いうちは難しいことでも、年を取るとあんなこともできるようになるのだ、それなら早く年を取りたい、と思うようにするのが、高齢者の役割だと思う。