【第306回】 執着をすてる

合気道の修行には、終わりがないはずである。修行が終了するときは、人生の終了ということになるように、修行を続けるべきであるはずだが、現実ではそうでもないようである。まだ元気溌溂なのに合気道から遠ざかっていく人が多いようなのは、残念である。

稽古を止めてしまうには、いろいろな事情や理由があるだろう。病気や怪我、経済的な問題、家庭的な問題などなどあるだろうが、もう一つ大きな理由があると思うし、それが一番の問題だと考えている。

それは、自分の合気道に限界を感じることである。長年稽古してきたが、少し力を入れられると技がかからなかったり、動けなくなってしまうので、今までやってきたことは何だったのだろう、そして、この先このまま続けても限界があるのではないかということで、止めてしまうのである。

合気道の修行は、一直線上に時間をかけて進んでいけばよいというものではない。ある時点からは、それまでと全く異質で、場合によっては全く正反対の稽古をしなければならなくなるだろう。

例えば、はじめは力一杯稽古して力をつけていくが、次の段階ではその力に頼らず、技を身につけていかなければならない。技が身についてきたら、また、以前に培った力をつかって、技と力の稽古へと変わっていくのである。

また、はじめは形の稽古をするが、形を覚え体ができてきたら、今度は技の稽古に入らなければならない。形の稽古の直線をおりて、新しい技の直線上を進まなければならないのである。

このように、次の直線に移らなければ、限界の壁にぶち当たることになるから、何とか次の線上に移らなければならない。その為には、今まで稽古してきたことを一度忘れなければならない。

しかし、人はそれまで培ってきたことを手放すことはなかなかできないものである。新しい線上にのるためには、全く今までとは違うことに挑戦しなければならない。不安もあるだろうし、新しい稽古法で本当に上達するのかどうか、疑いもあるだろう。また、新しい線に乗り換えれば、必ず一度は実力が低下するので、忍耐も必要である。

しかし、本当に精進するための修行を続けたければ、この乗り換えは必須である。そのためには、自分を導いてくれる光を見つけなければならない。いい指導者がいれば、その光を見せてくれるだろうし、いなければ自分でその光を見つけなければならない。

だが、その光がなかなか見えないようである。そのような指導者を見つけるのが難しいだろうし、たとえ指導者や先輩が示してくれていても、見えないし、見ようとしないのである。その原因は、一言で言えば「執着」であるといえよう。今までのものに執着しているために、その光が見えないのである。それを開祖は、「普通の人は遮るものがあるから、光が見えない。それは執着である。」と言われている。(「武産合気」)

長年稽古をし、年を取ってくると、それだけ「執着」が大きく、強くなるようだ。若くて執着の少なかった初心者の頃のように、素直になり、執着を振りはらうことである。そうでなければ、先に進めず、いずれは壁にぶつかってしまうことになるかもしれない。

開祖はかつて、「今日習ったことは、忘れてしまえ」とまで言われているである。