【第303回】 「人間本来糞袋」

若い頃は怖いものなどなかったし、何でもできるだろうと思っていた。しかし、年を取ってくると、自分のできることできないこと、自分の限界などがどんどん分かってくる。また、他人のことも見えてくる。

それまでは表面的、外見上からしか見てなかったし、興味もなかったものが、最近は、内面的なこと、見えないもの、心・念・精神などに興味を持つようになってきた。そして、今まで気が付かなかったことに気づき、今まで目をつぶってきたことに目が開くようになってきた。

これまで見えなかったことが見えてくると、自分の若い頃から溜め込んでいた"自信や自惚れ"が霧散してしまうものだ。そして自分がいかに小さいかわかり、まだまだ修行が必要だ、と思うようになる。

自分がこんなものかとつくづく思うのは、特に(びろうな話で恐縮ですが)、トイレである。日々の行事になっているわけだが、他人がこの光景を想像しても滑稽であろうし、自分でも想像しただけでコケンに関わることである。これまでは、誰もがやっていることであるし、人の陰、影の部分なので、触れずにそっとしておいたし、その方がよいだろうと思ってきたのである。

禅では、「人間本来糞袋」という禅語がある。偉そうなことをいってもやっても、人は糞袋であるという、自惚れへの戒めであろう。また、昔の川柳に「絶世の美女もしょせん糞袋」などというのもある。美女に振られた男も、そう思えば熱も冷めて、正気に戻れるということのようだ。

一般社会では、どんな偉い人に接してビビッても、美人に振られたとしても、「人間本来糞袋」とか「絶世の美女もしょせん糞袋」と思えば、現実に戻れるだろう。また、偉い人や絶世の美人でも、そう見られたら滑稽でもある。社会の偉い人も絶世の美人も、それに我々一般人も、この宿命から逃げることはできない。

しかし、いつもそういう目で人を見ると、世の中がおかしくなるから、誰もそのことを考えずに、差し障りなく人と接し、付き合っているはずである。

自分が糞袋だなと感じるのは、胃腸に飲食物が溜まっている時ではなく、それを出す時であるはずだ。時には、詰まってなかなか出て頂けないときなど、切実に実感するが、いづれにしても、最後の処理を紙でする時ではなかろうか。この瞬間ほどみじめな気持になることはないだろう。もし、この最後の処理のプロセスをなくせば、自分は糞袋という思いも消えて、みじめな気持もなくなるし、自分の尊厳も傷つかないことになるはずである。

怖い先生とか、偉い人などにビビると、不謹慎だが「人間本来糞袋」と考えてビビリから逃れてきた。だが、年を取ってくると、「糞袋」でない方も居られることを知らされる。つまり、最後のプロセスを必要とされない方も居られるということである。

おひとりは、かつて合気道の本部道場師範だった方で、玄米食を中心とした自然食事療法をやっておられた方だが、この先生は、体の調子のいい時には紙を使う必要はないと私にいわれていた。確かに、自分が玄米食をやっていた時、その通りにできはしなかったが、その感じはつかめた。飲食の取り方によっては、できないことはないだろうと思った。つまり、食事療法によって、人は「糞袋」から脱出できるのかもしれない。

もうひとりの方も、かつての合気道の本部道場師範である。この先生は、道場でも道場の外でも、我々に決して隙を見せない厳しい先生であった。何とか隙を見つけようとしていたが、最後までそれはできなかった。また、この先生だけは、「糞袋」という目で見ることができなかった。なぜならば、この先生はトイレで紙を使ったことはないと、二、三の親しい門人に話されていたのを知っていたからである。この先生は前述の先生のように、玄米食をされていたわけではなく、我々と一緒に何でも召し上がっておられた。この先生の体質は、我々常人とは大いに違っていたのかもしれないが、努力も超人的であったことから、私の考えでは、多少の修練もされたのではないかと思っている。

「糞袋」が後進に大事なことを伝えようとしたら、「糞袋」から脱出できればよいのだろうが、我々凡人にはなかなか難しいことだろう。

しかし、大事なことは、人間は本来は糞袋であるが、絶対にすべての人が「糞袋」ではないということである。もしかすると、「糞袋」と見ている偉い人や美人も、「糞袋」でないかもしれない。いや、これからはそう見てやろうと思う。

そして、自分はまだ「糞袋」だが、人は「糞袋」から脱出できるのだと信じ、 人間として、万物の長として、自信と責任をもって、宇宙生成化育のお手伝いをしていくべきと考えている。