【第299回】 でき上ったら終わり

入門した頃は、誰でも無我夢中で一所懸命に稽古をする。未熟である事を自覚し、少しでも先輩達のようになりたいと思うものだ。

しかし、五年十年と稽古を続けてくると、有段者になり、受身も取れると思うし、技もできるようになったと思い始めるものだ。俗に言う、天狗になるのである。

合気道には試合がないので、本人がそう思うなら、それはそれでよいのだが、一般的にはそう思い続けることはできないのが、現実であるようだ。どうしても、この天狗の鼻がへし折られるようになる。誰にへし折られるかというと、同じように天狗になって、その鼻をへし折られた先輩である。そして、天狗の鼻がへし折られて、まだまだ修行が必要であることを再認識することになるのである。

受けがまあまあ取れて、形も覚えた程度の段階では、どうしても腕力に頼った稽古になり、腕力の強いものが弱いものを制するという稽古になる。まずは、この段階で鼻を折られることになる。パワーのある先輩にやられるのである。鼻を折ってくれた先輩の方が、よりパワーの稽古を積んでいるので、一般的には有利なはずである。

問題は、後輩の鼻を折った先輩である。この先輩の鼻を折ってくれる人がいなければ、自分はできたと思ってしまうだろう。つまり出来上ってしまうのである。

この先輩の鼻を折ることができるのは、ご指導下さる先生であるだろう。私の場合は、有川定輝師範であった。見事に鼻をへし折られた。しかし、お陰さまで未熟を悟り、再出発することができて、今に続いている。先生には感謝している。

大先生の時代から半世紀も稽古を続けていると、稽古人の大半は後輩になり、技もほぼ自由に使えるようになってくる。それ故、よほど気を引き締めないとでき上ってしまうことになる。誰か、あるいは何かが鼻をへし折ってくれなければならないのだ。有川定輝師範なら間違いなく、隙があれば、鼻を折って下さっただろうが、残念ながらもう居られないのでそれはできない。

この段階で、でき上らないよう、またでき上ったら鼻をへし折ってくれるものとして、次の二つのことがある。

一つは、鼻を折って下さった有川師範や怖かった大先生が、いつも傍らにいらして見て下さっていると思って、稽古をし、また立ち振る舞いをすることである。有川師範や大先生に大目玉を食わないよう、そして鼻をへし折られないように、注意しながら稽古していくのである。

もう一つは、もう一人の自分に、自分ができ上らないように監視させることである。もう一人の自分の声に耳を傾け、自分を叱咤激励し、精進していくことである。

もうこれでよい、自分は頂点に達した、これ以上修行は必要ない等と、でき上ってしまうのは未熟な証拠である。大先生も有川先生も、最後の最後まで修行を続けておられたし、まだまだ修行を続けようとされていた。決して、でき上がってはおられなかった。

高だか70歳代に入ったばかりの我々凡人が、そんな程度ででき上ってしまってはいけない。でき上ったら、終わりである。