【第297回】 魄から魂へ

現代は、まだまだ物質文明の世界といえよう。モノや力、そして見掛けが優先する魄の世界である。力のある者、金を持った者、見掛けのいいものが、そうでない者を牛耳る世界で、その覇権争いが絶えない世界となっている。

人はだんだんと、このような物質文明、魄の世界に限界を感じて、物質、魄が主導権を持たない世の中を望むようになってきているように思える。その世界を、合気道では魂が魄の上になる世界という。

現実的には人は魄の世界に生きているので、それを抑えて魂の世界に生きるのは難しい。特に、物欲や見掛けに捉われる若いうちは、不可能に近いだろう。しかしながら、仕事を引退し、ビジネスの社会から離れ、損得の世界になく、優劣を競う必要がない社会で生きることになれば、魂を魄の上に置く生き方は可能になってくるであろう。

年を取ってくると、モノの見方や考え方が違ってくるようで、若い頃とは正反対になるようである。例えば、表面的なことには惑わされなくなり、中身を重視するようになるし、見かけではなく、心を見るようになる。リンゴは形がよくて、赤い色をし、ピカピカに磨かれているのがよいとは思わず、大事なのは味であるし、女性も若くてみめ麗しいよりは、気持がやさしい方に引かれるようになる。

若い頃は、幼児や小さな子供たちはうるさいだけだと感じていたが、子供の声や動作に感動するようになる。特に、親といっしょに歩いたり、遊んだりしている子供たちは、自然でエネルギッシュであり、これが人類の本来の姿であろうと感動する。

魂が魄の上になる生き方とはどういうことなのか、どうすればよいのかということが分かるには、ある程度の年を取らなければならないだろう。だが、合気道の修練を通してもできるようにならなければならないと、開祖は言われている。合気道は、魂が魄の上になるような世界をつくるお手伝いをしなければならない、と言われるのである。

合気道でいう魄とは、目に見える体、五体である。この力が、体力とか腕力という魄力である。魄力は体や腕に比例する力であり、見ればだいたい予想できる。この力は、末端からの力、弾いたり引っ張る力、相手を不快にしたり、恐怖を与える力であるから、争いを引き起こす力ということになろう。

これに対して、魂は目に見えない。しかし、合気道では、この見ることも触ることもできない魂に力があり、その力を使わなければならないというのである。魂の力は、体や腕に比例するものではなく、心や気持や潜在的なエネルギーと関係する力であり、表面的には見えないが、包容力があって相手を包み込み、くっつけて一体化する力といえよう。

魄力は、特に若い内は、誰でも容易につけることはできるが、限界があるし、年を取ってくると鍛え続けるのが難しいだけでなく、せっかくつけたものでも衰えて来る。

魂の力は、目に見えないので、その存在ならびにその力を自覚するのは難しいし、鍛えるのも難しい。また、現代人はまだまだ物質文明を享受しているので、魄の力(モノ)に頼ってしまい、魂の力に気がつきにくい。

しかし、開祖が言われているように、そろそろ魂が魄の上にくるような世の中にしていかなければならない。それが合気道のひとつの使命であるから、合気道の稽古も、魄の稽古から魂の稽古に変えていかなければならないだろう。つま、鍛えた魄の力を越える魂の力をつけ、その魂の力で魄をつかいこなすことだろう。 

若い内は難しいだろうから、先ずは、やりやすい我々高齢者が率先してやるべきだろう。もちろん、魄(魄力)を否定するのではない。魄をさらに鍛えながら、それを抑え、魂が魄の上にくるようにしていくのである。

次回は、魄から魂の稽古はどうすればよいのか、研究してみようと考えている。