【第296回】 楽しむ

最近は、暗い顔の人をますます多く見かけるようになった。街を歩いていても笑顔が少なく、深刻な顔で歩いている人が大勢いる。これでは、人身事故が頻繁に起きるのも無理ないと思ってしまう。

暗い顔をしているということは、生きること、学ぶこと、働く事を楽しんでいないということになるだろう。もったいないことである。

明るい顔、生きている事を喜んでいるのは、幼児・子供、とりわけ親と一緒にいる子供たちである。親と一緒にいることで安心し、満足して、楽しそうだ。親の心配事や問題も気にしないで、何の心配もないようにはしゃいでいる。子供にとっては、親や家庭が金持ちだとか、学識があるとか、有名であるとかなどは全然関係ない。親が一番偉く、頼れるのである。親が明るく、元気で一緒にいてくれれば、喜んではしゃぎ、満足している。

誰でも若い時期には、学校、会社などで、競争や駆け引き、謀略、不運などで厳しい生き方を体験させられるだろう。そういう体験で、人はだんだん顔つきが厳しくなり、疑い深い顔になったり、暗い顔つきになったりするのだろう。そして顔つきばかりではなく、人格まで陰気になってくる。無邪気で純粋だった子供が、こうも変わるものかと恐ろしい。

陰気で暗くなってくると、人は寄りつかなくなる。電車の中の乗客を見ていてもわかるが、暗い人の隣に座るのは敬遠したり躊躇するものだ。人は明るい人の方を好むといえよう。また人だけではなく運も明るい方を好むようだ。これが宇宙の意志なのだろう。

明るいということは、その人が人生を楽しんでいるからであろう。人は明るい人の傍にいると気持がいいし、また、人は明るい人を見て、自分もそうなろう、なりたいと思うのではないだろうか。だから無意識の内に、明るい人の方に引き寄せられるのだろう。

人生を楽しむということは、生き方、生きることを、楽しんでいることであろう。何かをやること、例えば厳しいはずの仕事にしても、楽しんでいることになる。

人は誰でも、楽しい人生を送りたいと思っているはずだ。そのためには、何でも楽しめなければならないだろう。勉学でも、仕事でも、合気道の修行でも、楽しむ事である。いやいややったり、義務感でやっては、楽しめない。

楽しむためには、好きにならなければならない。それには、やれることに感謝し、やろうとしている事を信じ、また、それをやる自分を信じなければならないだろう。好きとは、楽しめることということかも知れない。

かつて本部道場師範であった有川定輝師範は、自分の合気道は「道楽」であるといわれていた。つまり、合気の道を楽しんでおられたわけである。だから、半世紀にわたってあのような厳しい修行を続けられ、高い境地に至ることができたのだと思う。

しかし、「楽しむ」ということは、子供の頃の楽しみ方とは違うだろう。年を取ってきて本当に楽しいと思うのは、苦労の覚悟をし、精一杯努力をして、その結果の成功不成功にあまり捉われず、十分に努力した自分にご褒美をやったり、叱咤したり、運不運の存在と関与を実感したり、自分の能力の足りなさを再認識することになるが、そのすべてを楽しむことであろう。よい結果が出れば楽しいが、結果を出すために努力する過程もまた楽しいはずである。これが、顔に出てくるのである。「道楽」をされていた先人方のお顔は厳しいが、暗いものではなく、厳しくかつ楽しんでおられた顔のように見えた。