【第291回】 よく見、よく考える

現代はスピードが幅を利かせる世の中であり、速さが要求される若者文化であるといえるだろう。毎日がますます目まぐるしく過ぎていくし、人もますます忙しくなってきている。

高齢者は、多くの場面で若者にとてもついていけないようである。例えば、コンピュータの操作、携帯電話でのメールの打ち込みやゲーム等などは、その典型であろう。若者のあのキーを叩く速さは、高齢者にはとてもついていけない。

少しでも速く処理するために、頭で考えるのではなく、機械的に、そして無意識で手を動かしているように見える。我々がアナログ型とすると彼らはデジタル型ということになるだろう。

若者のこのデジタル化は羨ましい面もあるが、問題の面も見えてくる。機械的に処理動作をすることは、パターン化し、頭でじっくり考えることをしないことになるので、考えることを拒否するようになってきているように思えるのである。さらに、じっくり考える場もなくそうとしているようだ。電車の中でも、道を歩いていても、自転車に乗っていても、ヘッドホーンやイヤホーンで音楽を聴いているのはそのためのように思える。

よく考えないということは、モノをよく見ないということにもなるだろうし、人の話や花鳥の声も聞かないことになり、また、食べ物をよく味わうこともなくなるということもあると思う。あたかも、脳を使うことを避けようとしているように見えるのである。

高齢者の中には、若者に負けまいとしてか、スピードを誇るかのように振舞うのが増えてきているように思う。エスカレーターを駆け上がり、混んでいる通路や階段で前の人を追い越したり、赤信号でみんなが待っていても得意げに渡っていくの、けっこう高齢者に多い。誰が見ても、最も時間に余裕があり、急いで帰宅しても恐らく大してやることもないはずの高齢者が、若者に負けじと急ぐのは、滑稽であるし、哀れでもある。

先の見えてきている高齢者は、急ぐよりもじっくりと考えながら生きていくのがよいと思う。今さら若者のようにファストライフはできないのだから、スローライフで行くのがよいだろう。人の話にはじっくり耳を傾けて聞く、食べ物や飲み物もゆっくり味わう、パソコンやメールは自分の頭の回転維持、記憶力維持、自分の成長のためのツールとして使い、それに振り回されないようにする。自分を掘り下げ、自分に肉付けするためにそれらを使い、時間とモノと精力も使うのがよいのではないだろうか。

合気道の稽古も、いつまでも続けられるわけではないから、一回一回の稽古を大事にしていかなければならない。パターン化した稽古ではなく、速さに頼るのでもなく、相手や世界や自分をよく見、よく考えて、稽古していかなければならないだろう。