【第29回】 高齢者がしっかりしないと日本はよくならない

日本はすばらしい国である。自然は豊かで、人間もいいし、食べ物の豊富さは上手さは世界一だろう。日本には古い文化も残っているし、新しい文化もあり、伝統的なモノと最新のモノが共存している。外国にいって日本を見てみれば、日本がいかにすばらしいかよく分かるだろう。

日本のこのような素晴らしい文化が残っている理由の一つは、高齢者が参加していることである。合気道などの武道はいうに及ばず、伝統的な芸能や、日本食文化、祭りなどにもある。開祖がよく「50、60歳はまだまだはなたれ小僧」といわれていたが、ある程度年を取らないと物事が分からないということだろう。

しかし、今の日本の社会はどうもおかしい。毎日々々、ますますおかしな問題が新聞やテレビで報道されている。みんなおかしいと思いながら何故なのか、どうすればいいのか分からないでいる。

戦争に負けたこともあって、日本ではますます欧米化が進み、新しい技術やシステムがどんどん入ってきているため、若者が主導的役割を担うようになってきた。それに付いていけない高齢者は社会の片隅に引っ込むようになり、まるで欧米社会のようになってきた。

もともと日本は稲作民族であり、集団でまとまって生きてきた民族である。それに対し、西洋は狩猟民族であり、個々に分散しても生きられる民族である。日本は知恵の文化、老人社会であり、西洋の知識の文化、若者社会とは対象的である。今の日本は、西洋のように集団の中ではなく個々に生きようと努めているようだが、長年かかってできあがったDNDのせいで、西洋のようには生きられないし、集団から抜けようとしても抜け切れず、仕方なく集団の中で個々に生きようと焦っているようだ。

社会をよくするのも悪くするのも人である。そしてその社会にいる者すべての責任であって、悪いことをやった者だけが悪いのではない。昔、道場で自主稽古をやっていると開祖がどこかで見ておられ、何か間違ったことでもやっていると、よく怒鳴り飛ばされたものだ。しかし、開祖は決して間違ってやっていた本人には怒らず、その時の道場で一番の古株、師範や古参の稽古人を対象にした。私が原因で道場中が怒られたこともあったが、その時もそこに居合わせた師範が怒られてしまい、大変申し訳なく思ったものだ。つまり、古株は道場全部に責任を持てということだった。稽古時間はその時間を指導する先生が責任をもつが、自主稽古の時はその中での最古参が責任をもたねばならないということだろう。

この日本がよくなるためには高齢者がしっかりしなければならないのではないか。日本は以前、知恵の社会、高齢者が尊敬される国であった。国民は、日本人としての誇りをもち、外国からも羨まれるような国であった。しかし、今の日本、日本人は自信を喪失している。

日本のお祭りを見るといつも感動する。それは、祭りに携わっている人が、持ち分を一生懸命に勤め、楽しんでいるからである。指揮しているのは高齢者、老人である。以前は、体力がある若者がその祭りを引っ張ればいいんじゃないかと思ったが、それは不可能なのだ。やはり日本社会では、多くの経験をつみ、全体が見渡せ、どんな問題にも動じることもなく解決でき、他グループとの交渉もでき、さらに若者を育て重要さを知り、育てることができる高齢者にしかできないのである。

今の若者にも、経験豊かな高齢者のアドバイスや知恵が必要なのである。問題は、若者や社会がそのような話を直接言ってこないことだ。問題を起こしてしまっても誰も何も言わないので、それが認知されたと思い込んでしまう。ほんとうなら悪いことは注意しなければならないのに、今の若者には難しい。関われば争いになるかもしれないと、だれもが恐れている。

合気道では、争ったら駄目だと教える。争わないで相手を説得しなければならないのだ。つまりは、相手の前に立っただけで、あるいは、一言言っただけで、相手が納得し、反省するようにならなければならないわけだ。開祖はそんなことができる人だったと思う。あの怒られたときのエネルギーで向かわれたら、どんな人も、たとえ熊であろうとも、戦意を失ってしまうだろうと思う。現代でも、開祖まではいかなくとも、それに近い人はたまに見かける。是非そのように争わずに相手を説得できるような人間になって、社会の役に立ちたいものである。高齢者がいい社会や日本にするため努力すれば、少しずつでもよくなるはずである。若者や社会はそれを待っているのではないか。