【第287回】 まだまだボケてなどいられない

古希を迎えて70年間生きたのだから、洟垂れ小僧は卒業して一人前になったと思ったら、まだまだほとんど何も分かっていないことを、改めて痛感している。テレビを見ても、本を読んでも、博物館や美術館にいっても、まだまだ何も知らないなと思う。例えば、最近は司馬遼太郎の本を手当たり次第に読んでいるが、彼の著作を読んでいると、自分の未熟さを痛感するばかりである。漢字が読めない、意味が分からない、歴史が曖昧、地名が不明瞭、我々後進のために活躍された"有名人"とその業績を知らないなど等、恥ずかしいかぎりである。

合気道も半世紀近くやってきた。もちろん、まだまだである。知らないこと、やるべきことがあるし、それがどんどん増えてきている。高段者だからといってふんぞり返ってなどいられない。開祖が『武産合気』や『合気真髄』で説明されている言葉や文章も、まだまだ理解できないでいる。ましてやその思想を技に表わすのも、まだまだである。

自分が知るべきことを知っていない、やるべきことができないと分かっただけでも、進歩、上達なのかも知れない。進歩は、知らない、できないということから出発するはずだからである。これからまた新たに知るべきことを身につけ、できないことをできるようにしていくためのスタート台に立たなければならない。原点回帰、原点に戻れとは、こういうことなのだろう。

稽古も、原点に戻ることが大切だろう。稽古は長期間やらなければならないが、長くやればよいというものでもない。そのために、細心の注意をしなければならないし、そのやり方でよいのか、常にチェックしなければならない。もし、間違った方にいっていたり、壁にぶつかれば道を修正しなければならない。間違った道をそのまま進めば、戻るのが大変だし、行き過ぎて戻れなくなるかもしれない。

古希を過ぎたので、自分の先は見えてきている。しかし、やるべきこと、やりたいことはどんどん増えてくるようだ。お迎えの方との勝負ということになる。ボケてなどいられないだろう。