【第286回】 十字の感動を

どうやら定年になり、毎日会社に行って仕事をしなくてもよくなると、当初やりたかったことがやっとできるとばかり、生活を楽しんでいるように見えるが、段々と精彩が無くなってくるようだ。そして、やがて家でごろごろしていたり、カミさんにくっ付いている濡れ落ち葉になったりしてしまう。

それまで、40年、50年と半世紀近く、また、自分の人生の大半を仕事に捧げてきたわけだから、仕事から引退すると、どうしていいのか分からなくなるのは当然だろう。誰でも定年が近づけば、その後のことを考えるはずだが、辞めるまでは実感が沸かず、せいぜい忙しくて出来なかったことを、あれこれやろうと楽しみにするぐらいだろう。

世界も変わるが、日本も変わった。例えば、平均寿命は80歳であるという。65歳で仕事をやめてからでも15年ある。かつては、人生50,60年であったし、社会のシステムも人生設計もせいぜい60歳を目安にしていたので、60,65歳で定年になっても、その後のことなど考えなくともよかっただろう。

それが、今では、100歳まで生きることを前提とした人生設計をしなければならなくなってきた。これまで経験したことがないことなので、どうしていいか分からず右往左往しているように見える。だから、われわれ世代で、新しいシステムや生き方を考えなければならないだろう。

一般的におおざっぱに言えば、若い頃の生き方は、横に拡大していく点的な生き方と言えよう。好きなこと、やりたいこと、嫌いでもやらなければならないこと、やりたくなくてもやらざるを得ない事、はずみでやってしまうことや、やらされること等などである。だから、喜びや感動にもつながらず、その先の予想もつかないものであろう。それでも若いうちは、それなりに喜びや感動を得るし、生きているという実感も持つのではないだろうか。

若いうちは何でもよいから、少しでも広く多くのものをやり、経験することが、より感動を得ることができて、生きているという実感と喜びをもつことができるだろう。

若い頃は、ちょっとしたことで感動し、泣いたり笑ったりするが、年を取ってくると鈍感になるのか、なかなか感動するのが難しくなる。お箸が転がっても若い娘は笑うというが、若い頃には笑った年寄りも、お箸が転がってもう笑わないだろう。

高齢者になれば、若いときに感動したからといって、それと同じことでは感動しないはずだ。若い頃とは違って、手当たり次第にやっていては駄目だろう。体力や気力が衰えることもあるし、やることを広げていくのは難しい。

年を取ってからの感動は、多種多様なことを多く知るのではなく、より深く知り、深く入っていくことから得られるようだ。
最も感動するのは、自分自身のことではないだろうか。つまり、若いときは自分の周りにある「他」に感動するが、年を取ってくると他より自分自身に感動するようになり、また、そうなりたいと思うようだ。

例えば、私個人も若い頃はいろいろなスポーツや武道をやったが、年を取るに従って合気道一本になった。合気道を稽古して、その道をどんどん堀り下げていくと、自分の中や自分の変化の中に、いろいろな発見や摩訶不思議があり、それが最大の驚きや感動の元になっているようである。

若いときの生き方と感動は、点が横に拡大していく面であるのに対して、年を取ってきてのそれは、線として縦に伸びるものといえよう。この若いときの横と年を取ってからの縦が、バランスよければ十字になり、安定し充実した人生となって、最後に満足できるのではないだろうか。

最後に満足できるように、若い時代を謳歌したであろう合気道同志も、今度は合気道を日々より深く掘り下げ掘り下げしながら修練し、そして自分自身を深く見つめ、新しい発見や摩訶不思議に感動していくのがよいのではないだろうか。