【第285回】 歌
人は、時としてモノを見たり、聞いたり、また何か発見や創造をすると、感動するものである。その感動は、顔や仕草に表れる。しかし、もっと感受性の強い人でその表現法を持っている人は、感動を表現する。例えば、絵、歌と楽器による音楽、踊り、俳句や短歌の歌などである。
自分の感動を表現できるものを持っている人は幸せである。おそらく人は、感動を表現するものを何か持ちたいと、潜在的には思っているのではないだろうか。
自分自身を思いかえしてみると、自分の感動を表現できるものを、無意識のうちに持とうとしたのか、絵(墨絵)、習字、篆刻、木彫り、楽器(ウクレレ、ギター、尺八)、社交ダンス、歌(詩吟、謡)などに、なんとなく挑戦したようだが、残念ながらモノにはならなかった。それらの才覚がなかったことと、若い頃は気移りがしてそれらの時間が十分取れなかったからだろう。
今でも、絵を描ける人や、楽器が演奏できる人、踊りができる人などは羨ましいと思うし、尊敬する。
年を取ってきて、それでも何とか一つぐらいは自分の気持を表現できるものを持ちたいと思って、なんとか一寸だけやっているのが「歌」である。歌と言っても声を出して唄うものではなく、文字で表現する方である。理想は俳句や短歌なのだが、不真面目なせいか、どうしても川柳、狂歌風、都々逸風になってしまう。
挑戦しはじめて10年ぐらい経ったと思うが、残念ながら前に使っていたパソコンが壊れた道ずれに、古い迷歌も消えてしまい、5年前からのものしか残っていない。
その愚作の幾つかを、古い順から見てみよう。自分でも笑ってしまうものもあれば、我ながら感心するものもある:
- 今朝は雨と 知らずに咲いた朝顔の 頭をたれた 花ぞ悲しき(2007.7.23)
- じっくりと 拝見したいと思ってきたが 後がつかえる 魯山人展(2007.8.15)
- 朝顔も しぼんで咲いてる 暑さかな(2007.8.16)
- 一人だが 会話してるぜ 携帯で(2008.1.23)
- 祭りでは 格好いいぞ 高齢者(2008.8.17)
- 蝉ないて 夏も終わりか また来年(2008.8.30)
- まだ暑く 涼みに外に出てみれば 雲間に出でし 中秋の月(2008.9.23)
- 夏がいく 必死に鳴いてる 蝉のコイ(声と恋)(2009.8.30)
- パラパラ降っても 傘などいらぬ 役目終えたる 木の葉の雨よ(2009.12.5)
- あと一年 来年は70歳だぜ 誕生日(2010.4.5)
- 待ってたぜ 今年も咲いた 桜花(2010.4.8)
- にこやかな 顔ばかりなり 桜花(2010.4.8)
- 雨に散る 桜の花よ また来年(2010.4.8)
- ジージーと 俺はここだと鳴くセミは 後三日の命かな(2010.8)
- くしゃみ出るけど 寒くはないぜ 俺が女にもてるだけ(女房との会話)(2010.8.27)
- せんべいじゃ ないけどここは パリパリのパリ(2010.9.28)
- 散歩道 紅黄(あかき)に透ける 桜葉は 花にも負けぬ 美しさかな(2010.11.14)
- 念のため はしごをするか 初詣(2010.12.31)
- 稽古見て! 一年ぶりの 桜さん(桜並木の前での自主稽古)(2011.4.10)
- 満開の 桜の前で稽古する 変わったでしょう 審査員(2011.4.10)
- 花もよし 若葉またよし 桜かな(2011.4.12)
- 蒸し暑い 台風去って 虫の鳴く(2011.9.4)
- 地震、津波 猛暑でも来たよ 中秋の月(2011.9.15)
歌は、川柳でも俳句もどきでも、なんでもよい。なぜなら、まず、歌でも歌もどきでも、つくる時はモノや対象をよく観察するから、モノを見る習慣と目ができるはずである。通常はうわべを目や耳でなぞっただけで終わってしまうが、モノに感動すると、それを更によく見るようになり、そのような習慣が身に付き、その目でモノを見るようになるものだ。
次に、自然を感じやすくなり、自然に親しくなり、その気持が伝わってくる。季節々々で、草木や生き物の生き方や気持が変わってくる。そんなことに感動する。感動を与えてくれるモノに敏感になり、感動も大きくなる。自然にやさしい人間になるということになるだろう。
三つ目は、歌をつくることは、自分自身を見ることになる。もう一人の自分が、お前は馬鹿だなとか、鈍感な奴だとか、おお、よく気がついた、よくやったな等と見るのである。これで、自分自身がより分かるようになる。
歌をつくることによって、対象をよく見るようになる。対象をよく見ることは結ぶことでもある。また、自然と親しくなり、宇宙の営みに敏感になっていく。また、自分を知っていく。これは、まさしく合気の道である。
上述の歌(もどき)は、人様にお見せするようなものではない。だが、自分としてはこんな程度でも十分に楽しめるし、見えなかったものが見えるようになり、自分自身も少しずつ分かってくるということである。
歌のレベルは上がらないだろうが、歌をつくることによって、さらにどんなものが見えるようになるのか、楽しみである。こんなことが、高齢者の楽しみになるのではないだろうか。
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