【第258回】 人 間

70年近くも生きてくると、今まで考えもしなかったことを考えるようになってくる。いや、本来なら考えていなければならなかったと思われることを、やっと考えるようになったということであろう。

その間に合気道を50年もやってきたことになるが、大事なことがまだまだ分かってないだけでなく、考えてもみなかったし、興味すらなかったと言えるだろう。

今になると、大事なことがいろいろあることがわかってくるし、それを考えて、自分なりに答えを出していかなければならないと思うようになるものだ。

どうも人間は、大事なことから考え始めるのではなく、その周辺から始めて、だんだん中心にある大事なことを見つけ、そしてやっとその大事なものに挑戦するようにできているようである。

人は100年ほど生きて、消えていく。しかし、人は新たに誕生する。ここでひとつ不思議に思うのは、いずれ死ぬことがわかっている人間が、あたかも永遠に生きるものと思い、一生懸命生きていることである。

同じように、いずれ稽古ができなくなるとわかっていても、合気道の稽古を一生懸命に続けていることである。いずれは止めることになるものだろうし、合気道を完全に習得することなどできないと分かっているのに、自分の稽古は永遠に続き、完璧に合気道をマスター出来るかのように稽古しているのである。

これまでは、不可能なことと知りながら、それに挑戦するロマンであるとして、われわれ合気道同人はロマンティストであると思ってきた。

しかし、これでは自分のロマンのために稽古し、そして生きているだけということになり、真のロマンティストではないのではないかと思うようになってきた。では、真のロマンティストでないにしても、この上のロマンティストになるべく稽古し、生きるためにはどうしたらよいのか、また、どう考えればよいのだろうか。

人は生まれ、死に、また新しく人が生まれ、そしてその人も死んでいく。その繰り返しである。この繰り返しが数百万年続いている。人類が誕生したといわれるときと、現在をくらべれば、衣食住、安全性、快適性等など世の中は総じてよい方向に進んでいるといえよう。だが、すべてが進歩し、良くなったとはいえないし、多くのよいものが失われてきてもいる。

とはいえ、ここまでくるのに、多くの人が生まれては死にを繰り返してきたわけで、これには意味があるはずである。

合気道を考えても、同じようなことがいえるだろう。確かに合気道は植芝盛平翁がつくられたわけだが、その後、開祖から合気道を学んだ後進が引き継いでいるし、今後もその後進が引き継いでいくだろう。

それに、開祖が合気道をつくるまでには、開祖も先人から技、術、思想などを引き継いだはずである。合気道は、人から人に伝承されていることになる

もし、先人の文化や技を引き継ぐものがいなくなれば、その文化や技は発展しないばかりか、途絶え、消滅してしまうことになる。だから、いいもの、残すべきものは、人によって引き継がれていかなければならないことになる。

人類がさらに発展するために、「人間」がある。「人間」は、先人と後人との人の間(あいだ)にある。人には各自、自分の使命があるといわれるわけだから、その使命を後人に託せばいいことになる。

合気道を稽古するのも、後人に合気道を引き継いでもらうためと考えればよいのではないだろうか。少しでもよいものを渡せるように、一生懸命に稽古するのである。あとは、後人に頑張ってもらうことになる。

人は自分の代で、その技術や伝統が途切れてしまうことを恐れる。人にはどうもこの「人間」という本能があるように思える。

「人間」として生き、「人間」として稽古をしていこうと考えている。