【第251回】 反面教師

合気道の稽古を長く続けていくと、年も取ってくる。年を取って来ての稽古は、若い時とはいろいろ変わってくる。体力は若い時に比べれば衰えているはずなので、一日に朝晩二回も三回も稽古をする気持ちになれなかったり、たとえやったとしても体が疲労を訴え、もっとやさしく取り扱ってくれとクレームを発し、筋肉痛が数日続くことになるだろう。

年を取ってくれば、肉体は衰えて来る。20,30歳代の肉体を80,90歳まで維持できる人はいないし、これからもいないはずである。これは宇宙生成化育での自然の理であるから、自然の理に従って稽古をし、生きていけばよい。年を取ったら若さなど誇示しないで、それ相応に稽古をしていけばよい。

年を取れば自分自身が変わっていくが、周りとの関係も変わってくる。40年、50年と稽古を続けていけば、先生、先輩、それに一緒の頃に入門した同輩などもだんだんいなくなってくる。それまでは先生や先輩に教えてもらい、注意を受けて上達してきたのが、教えてくれる人が一人また一人といなくなってしまい、後輩ばかりになってくる。それまでは、先生や先輩の技を見て真似できたのが、それも無くなってくる。

合気道の修行には終わりがないと言われているし、そうだと思う。開祖も最後の最後まで稽古されていたし、開祖の直弟子であった師範たちも、体が動く間は最後まで修行を続けておられた。やるべきことが無限にあるということだろう。

年を取ってくると段も上がり、教えてもらうことがだんだん少なくなってくる。道場での相対稽古の相手も、ほとんど後輩である。合気道は技の練磨を通して上達するのだが、後輩との相対稽古から上達していかなければならないことになる。

後輩は一緒に稽古している先輩から学ぶことはあるだろうが、先輩が後輩から教えてもらうことはまずないだろう。しかし、修行は続けなければならないわけだから、先輩も後輩から学ばなければ、合気道の基本的稽古である相対稽古の意味がなくなってしまう。

高齢者の先輩が、後輩と一緒に稽古する意味としては、以下のようなことが挙げられる。

反面教師とは「悪い見本として反省や戒めの材料となる物事。また、そのような人」である。それ故、後輩や後進との稽古は、主に、彼らの悪い見本を自分の反省や戒めの材料にする「反面教師」としての稽古といえるだろう。

しかし、後輩の悪い見本も、それを見るだけの実力がついていなければ、気がつくことはないだろう。特に、気がつくのは、自分が出来ていること(つまり、会得した技要因)を後輩が間違ってやっている場合である。それ故、技要因を少しでも多く会得していれば、相手の後輩の悪い見本もそれだけ多く見えることになるし、自分の反省や戒めもそれだけ多く役立つことになるだろう。
年を取れば、ますます「反面教師」から学んでいくことができるだろう。