【第245回】 発見と達成

半世紀近く合気道の稽古を続けているが、稽古年数が増えるとともに、年も重なってくる。若い頃は、言うなれば惰性で稽古をやっていたのか、何を目標に稽古をしているのかも、真剣に考えたことがなかったように思う。真善美の探求という漠然とした目標はあったが、それを目標にしてやっているという実感はなかった。ただエネルギーがあり余っていたのだろう、稽古をやらずにはいられなかったし、また、生きている証し、つまり、生きているという実感を持ちたかったので、稽古をしていたと言ってもよいだろう。

年を取ってくると、体力も気力もあり余るほどにはなくなってくるので、エネルギー発散のための稽古は必要なくなる。そうすると、それに代わる稽古を続けていく動機や目的、そして稽古の目標が必要になるだろう。

若いときと年を取ってきてからの稽古の違いの一つは、若いころは相手と自分を対立させ、競争相手とか倒す相手として相対的に見ていたが、年とともに、相手と自分は一体にならなければならないと思うようになってきたことだ。従って、以前は相手を弾き飛ばして喜んでいたが、最近は相手をくっつけてしまい、相手と結んで、相手と一体化できないと満足できなくなった。

若いときとは違って、相手の体型、体力、考えなどはあまり関係なくなったし、相手に依存する稽古ではなく、自分主体の稽古になってきたようである。つまり、他との戦いではなく、自分との戦いになってくる。

この自分との戦いの稽古をするようになると、これからの稽古の目標が見えてくる。そのうちの一つは、"新しい発見と、それまでできなかったことの達成"である。

原則的には、毎回の稽古で少なくとも一つの新しい発見か達成をすることである。どんなに小さなことでもよい。手足の遣いかた、手の返し、指の使い方、息の遣い方、顔の位置等など、なんでもよい。そして、その小さな発見や達成に感謝し、大事にすることである。なぜならば、この小さなひとつは、無限にあると言われる他の技や体遣いでも活用できるはずなので、無限大の活躍をしてくれるからである。つまり1=∞ということである。
そして、新しい発見と達成を一つ一つ増やしていく。これを通して、次の稽古でどんな発見や達成ができるか、楽しみにするのである。

また、発見や達成は、道場稽古だけではない。日常生活においてもできるはずである。道場稽古でこれができるようになれば、本を読んでも、テレビを見ても、ひとの話を聞いても、新しい発見はあるだろうし、今までばんやりしていた考えがはっきりすることもあるだろう。

今日一日にどんな発見や達成があるか楽しみになれば、明日が楽しみであろうし、来年も楽しみになるだろう。技も自分も変わるのである。自分が変わるほど楽しいことはないはずである。これが稽古をやっていく目標といえるのではないだろうか。また、生きる目標、いわゆる生きる張り合いでもあると思う。

才人は急速に変わっていくが、凡人はそれをこつこつと積み重ねていくしかない。それでも変わっていけるのである。すばらしいことだ。