【第240回】 運と合気道

若い頃は、実力と努力で何でもできるし、希望通りに物事を達成したのは自分の努力や能力によるものだと思うものだ。しかし、年を取ってくると、それも多少はあるだろうが、もう一つ「運」という要因があると気づいてくる。しかも、「運」という要素は、前の二つの要素よりも、我々の人生や人生の節目や転換期により大きな影響を与えているのではないかと思えるようになる。

運のいい人や悪い人の話は、話に聞いたり、書物で知るが、自分の体験を思い返してみると、いかに運のお世話になっているかよく分かる。人さまの運についてはよくわからないので、自分の運を思い出してみるしかないだろう。
人様にご紹介するほどのものでもないが、僭越ながら合気道に関わると思われる自分の運を思い返し、それを少し披露させていただくことにする。

私の場合、合気道を始めたのも運といってよい。大学に入って間もない頃、友人の住まいに行くと、たまたま数人集ってマージャンをやっていた。それを見ながら話を聞いていると、そのうちの一人が、合気道というものがあって、なにか不思議な技をつかうものらしいという。名前から、気合で敵を倒す技ではないか、などともいっていた。すると、もう一人が、大学に合気道クラブがあるというのである。なにか武道をやりたいと思っていたところなので、早速その足で教えてもらった学校の合気道クラブの練習場(新宿体育館)に行ってみた。

稽古をやっているかどうか分からなかったが、運のいいことに稽古をやっていた。しばらく見せてもらってから、主将に合気道とはどういうものかなどとお聞きした。その内に主将が、この練習場の近くに合気道の本部道場があるというのである。

どうせ稽古するなら大学のクラブより本部道場がよいと思い、主将に道順を聞いてすぐ本部道場に向かった。1962年の夏の暑い日で、午後5時頃だったろう。恐らく主将はクラブに入って欲しかったはずである。これも運がいいということだろう。

さらに運がよかったと思うのは、訪ねたクラブの練習場でやっていた合気道が本部系の合気道で、わが校の公式クラブである富木流合気道ではなかったことである。当初は本部系と富木流の違いなどわからなかったわけだから、もし、富木流の合気道の稽古を見に行っていたら、そのクラブに入っていたかもしれない。

本部道場の入口にある石の門を通って、左側に曲がると、正面に玄関があった。玄関を入ると正面に事務所があり、その前で履物を脱ぐ。右の階段を2、3段上がると道場である。道場では十数人の方が稽古をされていた。気合で飛ばす稽古をしているようでもないし、見てもよくわからないが、何となくこれは面白いのではないかと思った。それもあるが、何かに導かれているような気がしたので、とりあえず入会費と月謝500円ずつを払って入門する。そして玄関のガラス戸越しに稽古を見させていただいた。

しばらく見ていると、稽古を指導されていたT師範が私のところに来られて、入門するのかと訊かれた。「はい。今、入門手続きをしました」というと、師範は、これから稽古の終りの運動をするから、よかったら一緒にやってもいいといわれるのである。こんなことは前代未聞で、稽古衣ももっていないし、シャツもズボンもよそ行きのイッチョウライであるが、折角言ってくださるのだからと道場に上がって一緒に、終りの運動を始めた。まず転換、入り身転換を繰り返す。相当汗が出てきてシャツもズボンもびしょびしょになってくる。

それが終わってホッとするのもつかの間、今度は受身が始まる。前受身、後受身である。受身などやったこともないし、イッチョウライのシャツとズボンのことも一瞬考えたが、男の子だからと思い最後まで続けた。5分か10分だったと思うが、頭を打ち、肩や腰を打ち、汗でシャツもズボンもびちょびちょになった。

稽古を終えて外に出ると、気分爽快であると同時に、ここまでとんとん拍子にきたことは何かに導かれているのではないかと、不思議な気持ちになったのを覚えている。

合気道の稽古をはじめたことは、自分の人生に大きい影響を与えることになった。大きい影響とは、もし合気道をやらなかったならば、全然違う人生になっただろうという意味である。合気道のお陰で、本部道場でドイツ人の友達ができ、彼を頼りにドイツに行くことになったのだ。

そして、ドイツで女房(日本人)と知り合って結婚することになり、ドイツ人に合気道を教え、おかげでドイツ人やドイツという国、さらにヨーロッパを知り、ドイツに関わる仕事につくことになった。

また、当時お元気だった大先生をはじめ、大先生の直弟子である師範方に教えを請うことができたのも、運がよかったといえるだろう。合気道と出会わなかったり、入門が数年遅れていればそれらの先生方に教わることはできなかったからである。

もう少し運の話をしよう。運のお陰でドイツに7年も滞在でき、また多くの友人を得ることができたし、大学に入って、ドイツ企業への就職もできたのである。
ドイツは、短期で帰るつもりもあって観光ビザでいったので、合法的には3ヶ月しか滞在できない。だが、ドイツが気に入ったので、もう少し滞在してみようと思った。それで、その友人のアドバイスで滞在を延長するために、学生ビザに切り替え、ミュンヘン大学付属ドイツ語学校に入ることにした。ドイツ語は初めてなので、3ヶ月の初等クラスと、さらに3ヶ月の中等クラスを申し込んだのである。

授業に出てみると、みんな大学に入るためにきているということが分かった。この2コースを卒業すると大学入試のためのドイツ語試験を受けられるし、それに合格すると大学に入れるというのである。そこで、私も挑戦することにした。これほど一生懸命勉強したのは生まれて初めて、といえるほどがんばった。これほど勉強でがんばったのは、今考えても不思議で、まるで何かに導かれていたようであった。

そして、このドイツ語の国家試験に運よく合格したのである。受持ちのドイツ人の先生も、まだほとんどドイツ語を話せない私の合格には、びっくりされていた。20人ほどのクラスであったが、合格したのはアメリカ人、スイス人、カナダ人、それに私の4,5人ほどであった。授業中にはドイツ語をよくしゃべり、先生から、ゆっくりでいいからもっと文法を考えて話しなさいと注意をうけていた中東や東南アジア地域の人たちは落ちてしまった。

確かに運がよくて受かったのであるが、この合格には、それ以上に運がよかったといえることがあった。それは、この年の試験科目は文法とディクテーションだけだったということである。だから、私でも勉強すれば短期間でなんとかなったのである。

翌年からの試験科目には、ドイツ語会話が加わった。一年も滞在していないのでは、会話などとてもできないし、たとえ2,3年いても、合格できるレベルには達しなかっただろう。ドイツの試験は二度しか受けられない決まりになっているから、試験科目に会話がはいっていたら、合格などとてもできるものではなかった。ドイツ滞在も切り上げなければならず、人生は大きく変わっていたことになる。運がよかったとしかいいようがない。何はともあれ、大学に入ることができたので滞在許可証も容易にもらえたし、アルバイトも大学の斡旋で出来るようになったので、最低の生活はできるようになった。

大学に2年ほど席をおいたころ、ドイツ企業が日本人を探しているというので半日働くことにしたが、2年ほどして大学を諦めて、この会社に完全就職した。通常なら不可能な観光ビザから労働ビザへ変えるということができたわけで、ドイツの企業に就職できたのも運というほかはない。仕事を得たため、それまで週に2回教えていた合気道も安心してできるようになり、弟子も増えた。弟子たちのお陰で、車を持たなかったのに、いろいろな名所や町につれていってもらい、冬はよくスキーにも行った。弟子としてフランス人夫妻が来るようになって、おかげで今もフランスで合気道の講習会をやることになった。

この世に生を受けたのも、運としかいいようがない。今までに3度ばかり死んでも不思議ではない体験もしたが、これまで生きてこられたのは運のお陰としかいいようがないだろう。自分の力でやったなどと傲慢にならないよう、運のお陰と、運に感謝し、運に見放されないようにしていきたいと思う。