【第239回】 理合いの稽古

高齢者ということを考えるときは、その対称である若者を考えてみるのがよいだろう。若いときの稽古を思い出してみると、ただがむしゃらに動いていたということに尽きると言える。技など知らないし、技がどんなものであるか、今思えば何も分かっていなかったわけだから、技を遣えず体力と気力だけでやっていた。今思えば不謹慎であったと思うが、稽古相手に息を上がらせて、喜んでいた時期もあった。

しかし、これで体力ができてきたし、息が続くようになり、肺が丈夫になり、息遣いも身についたと思う。合気道はまず体をつくらなければならないと教わっていたので、技がどうのこうのとか心がどうのこうのというよりは、若いうちは動き回り、関節を決められ、投げられて体をつくるのがよいのだろう。

高齢者になると、若いときのようには動き回れない、というように動き回りたいと思わなくなる。体力やエネルギーが無くなってくることもあろうが、稽古の目標とそこへ行くためのやり方が、変わってくるのだろう。

高齢になってくると、一言でいえば、無理のない、理合いの稽古でなければならないと思うようになるし、そうでないと満足できなくなる。若いときのように相手を敵として稽古をするのではなく、敵は自分であると自覚し、自分との戦いをするようになってくる。

自分との戦いを始めるときから、真の稽古が始まるということができるだろう。それは、道にのったともいえるだろう。合気の道である。自分が中心になる絶対的な稽古である。他人に対してではなく、自分との勝負である。自分の身体を見つめ、改善していき、そして心(精神)を鍛えていくのである。年を取ってくれば身体の鍛錬から、だんだんに心の鍛錬へ比重が移ってくるようで、心の重要性、心が身体の上になるということが、分かってくるようになる。

また、年をとってくると、若いときのように相手を弾き飛ばすのではなく、相手を引力で一体化し、相手を感じようとするようになる。相手の響きを感じるわけである。まずは相手を感じ、そして大自然を感じるようになるようにするのだろう。若いときの魄の稽古からだんだんと魂の稽古に移っていくということだろう。

高齢者になってきたと思ったら、それまでの若者の稽古法から、十字に180度転換して、理合いの稽古に入らなければならないと考える。