【第229回】 不動

世の中、目まぐるしく移り変わっている。変わることによって、よりよいものにし、より美しく、より便利にしようとしているかのようだ。今までの歴史は、確かに変わることが近代化であり、変わることはよいことであったのだろう。

今の日本も、目まぐるしく変わり続けている。町の様子、ファッション、娯楽、人の生き様等など、世界で最も変化に富む国といえるだろう。

日本がフロー文化で、ヨーロッパはストック文化とよくいわれる。日本はどんどん変わることをよしとするのに対して、ヨーロッパは変わらないというのが原則の文化といえるだろう。家を例にとれば、ヨーロッパで家を建てる場合は、永遠に残ると考えて建てる。たとえそれが戦争で破壊されても、同じように復元される。日本の場合は、建てる時から20,30年で建て替えることを前提に建てられるだろう。機械を造る場合でも、ドイツなどでは少しでも長く使えるものをつくり続ける。日本の場合には、改良品を短い周期で出していくことによって商売をしているように思える。日独の商品寿命の考え方は、雲泥の差である。

合気道の稽古をしていても、初心者のうちは少しでも多くの技、派手な技を身につけようとするものだ。呼吸投げや腰投げや武器取りなどである。基本技ができなかったり、徒手でも満足に出来ないのに、そのような派手な技など出来るわけがないのだが、やりたがるものである。

だが、合気道でも生きることにおいても、変えてはならない大事なものがあるはずである。その為に稽古をし、そして生きているのではないだろうか。それは人によって違うだろうが、恐らく多くの人と共有できるだろうし、他人に共感を与えることができるものだろう。

例えば、合気道とは、開祖によれば「真善美の探求」であるといわれるし、人生観も「真善美」を探求するということができるだろう。もしそう考えるならば、合気道の稽古と、生きている中で、「真善美」の探求にプラスになることを選択し、マイナスになることをやらないことである。

そして、自分の「真善美」をより洗練させていかなければならない。そのためには、強固な信念が必要になる。まわりからの甘言や自分自身からの悪魔の甘いささやきに動じない気持ちを持つことである。まわりがどんなに変わっていこうが、よさそうなことをやっているように見えようが、自分の道をいくことである。どこにいても、どんな場合でも、自分の信念に従って、どっかと腰を据えることである。

臨済禅師のいう「至る所で主となれ」であり、開祖が言われる「宇宙の中心に立つ」ということであろう。それが動ぜず、不動ということであろう。人には変わってよいものもあるが、不動でなければならないものもある。それがなければ、技も効かないし、生きることも浮草のように地に足がつかないことになってしまう。

高齢者になれば、何が大事で何がそうでないか、分かるようになってくるはずである。先が見えてくるわけだから、大事なものに気がつかず、関係ないことに一喜一憂しているのは、時間の無駄だし、周りから見ていても滑稽であり可哀そうである。

不動を身につけ、稽古を通してその不動も洗練していきたいものである。