【第224回】 子供要因

人は年を取ってくると、肉体は干からびてくる。何時からどのくらい干からびるかは人による。肉体の干からびは避けられないだろうが、少しでも干からび開始の時期を遅らせ、干からび程度を最小限に抑えることしかできないだろう。

しかし、精神的な干からびは本人の責任であろう。心の問題だから、年に関係なく干からびを防ぐことができるはずである。

精神的に干からびた人と接するのは、面白くない。干からびた高齢者になると、話すことも、健康、病気、遺産、孫などが中心になる。話を聞いていても、陰気になるし、非生産的で時間の無駄である。どうせ死ぬのであるから、死なないようなことばかり考えていてもしようがない。

高齢者はいろいろな体験をしているはずだから、面白い話、知恵のある話、奇想天外な話などもあるはずである。とりわけ後進や若者には、何かを伝えるべきである。先が見えて来ているのだから、できるだけ楽しく有意義にやった方がよいだろう。

合気道は体を動かせる人なら誰でも稽古ができるので、高齢者でも稽古に来ている。稽古に通っている動機や目的はそれぞれ違うだろうが、高齢でも稽古に通ってくるのは評価できる。自分の体に鞭打ち、緊張に耐えながら稽古をする姿はよいものだ。街でよく見かける、緊張のない干からび高齢者と比べると、月とスッポンであろう。

合気道の稽古仲間にもいるが、合気道の外でも素晴らしい高齢者に出会えることはある。そんな時はうれしいものだ。自分もそうなるように頑張ろうと、大きな刺激を受ける。

高齢者ですばらしいと思う人には、ひとつの魅力的要因があるようだ。それは、子供要因ということであろうと自分は思う。子供子供ではなく、大人が持つ子供である。
子供要因には、

これらの子供要因のすべては、合気道と関係があるように思える。これらの子供要因は、合気道を精進する上で不可欠だと思えるからである。大先生はまさしく、子供要因の豊かな方だったと言えるのではないだろうか。

子供要因をもち、子供要因をもつ合気道仲間と一緒に稽古を続けていきたいものである。

参考文献 『司馬遼太郎が考えたこと』(「高貴な少年」)(司馬遼太郎)