【第223回】 精神まで干からびさせない

年を取っていけば、体はくたびれて衰えてくる。どんなに自分は若いつもりでも、若い時のように体を使うことは出来なくなってくる。稽古をするときも、昔の肉体的栄華を追わず、年に逆らわない稽古をしていくべきだろう。

しかし、50,60歳は、まだまだ年寄り(高齢者)の資格はない。大先生(開祖)に言わせれば、「洟垂れ小僧」であるから、まだまだ元気よく、自分の体を目いっぱい使った稽古をしなければならないことになるだろう。

50,60歳で目いっぱいの稽古をすれば、自分の肉体的限界が分かってくるはずである。どのように、どれぐらい、どこまで体を使えば、自分の体がどうなるかが分かるということである。自分の肉体的長所と短所がわかることでもある。

自分の限界が分かれば、あとは稽古でその限界を拡げたり、保持すればよい。そして、短所を補っていけばよい。長所を伸ばし、短所を無くしていくのである。

若い内は、自分をなかなか正しく評価できないものであり、やはりある程度は年を重ねなければならないようだ。稽古で技を掛ける場合でも、若いうちは主にパワーと勢いでやるわけだが、年を取ってくると、パワーと勢いが無くなってくるだけ、自分の体を無理のないように使い、理に合った技を遣うようになる。これが、パワーと勢いの若者を制することができる高齢者の知恵なのである。

しかし、いづれにしても人は年を取っていけば、肉体的な衰えは避けられない。足腰は弱くなるし、関節に痛みを覚えるようになる。また、目は薄く、耳は遠くなってくる。体は萎んでくるので皺が増え、髪は薄く少なくなる。外観からもその衰えはわかる。

だが、これは生物である以上、誰にも何にも避けられないことである。肉体的な衰えに対してで出来ることは、その衰えを少しでも遅らせることぐらいだろう。

肉体の衰えは仕方がないわけだが、問題は肉体の衰えにつれ、またはそれ以上に、精神まで衰えることである。肉体的な衰えの影響のあるものもあるだろうが、年だからという理由で、精神が年寄りになって干からびてしまうことである。自分を取り巻いてくれているもの、知らないものや新しいものへの関心がなくなって、ものを見たり聞いたり尋ねたりしなくなるのである。そうなると、自分自身が新しくなることや、自分の中の新しいものをみつけることなど、つまり自分自身が変わることにも関心がなくなるのである。

生きる楽しみとは、新しい発見であろう。そして、稽古を続ける楽しみは、自分が変わっていくことだろう。昨日と今日、一年前と来年、そして5年後,10年後、どれだけ変わっているかということである。

自分の変化を楽しみにし、そのプロセスを楽しんでいるうちは、精神は衰えないだろうし、若者より若々しいかもしれない。もちろん肉体的には若くはないだろうが、肉体は干からびても、精神まで干からびさせてはいけない。

参考文献: 『司馬遼太郎が考えたこと』(司馬遼太郎 新潮文庫)