【第220回】 利益は後からついてくる

時代が進むということは、忙(せわ)しくなるということでもあるようだ。考えてみると、子供のころ、学生のころ、会社勤めと、どんどん忙しくなってきている。

自分達だけではなく、学校も社会も国もすべてが忙しくなってきている。しかし忙しくなったお陰で、お金が入り、モノは豊かになったようだ。

それは、自分の子供のころと比較すれば歴然としている。子供のころはのんびりしていた。生活のペースは今よりずっとスローだった。ファーストフードもなく、スローフードしかなかったし、電化製品もまだ少なかったし、食べるものも十分なかった。大学4年を卒業するまでは、腹いっぱい食べられることが将来への望みであった。

ほんの2000年ほど前まで、8千年続いた縄文時代は、人はのんびり暮らしていたはずだが、腹いっぱい食べることは出来なかったであろう。腹いっぱい食べて、モノを持つためには忙しく生きなければならないようだ。

それ故か、人類は暗黙のうちに方程式をつくってしまったようだ。つまり、腹一杯食べたければ、またモノ(金)が欲しければ、忙しく働き、生きなければならないということである。人はそうしてきて、食べることができるようになり、豊富にモノを所有できるようになった。そして、人はその方程式に従って生きているようだ。

しかし今、この方程式の欠陥が露呈してきた。その一つは、人の生きる目標がモノ(金、腹いっぱい食べる等)を追い求めることになってしまったことである。忙しいのが当然であり、忙しさが勲章であるかのように考えるようになってしまったことである。何が自分にとって大事なのかを見失ってしまっているようだ。
人は一人々々役割をもって生まれ、生きていると思うが、その各自の使命に気がつかなくなってきたことである。

もう一つは、忙しく働いてモノを得ているうちはいいが、さらに忙しくなってくると、それもまどろっこしいとばかりに、やるべきこと、つまりプロセスを省いて、モノを得ればいいという結果だけを重視するようになってくることである。例えば、お金を得るのに、その対価の正規の時間と労働を提供せずに、他人様や銀行から強奪するとか、オレオレ詐欺を働いたりすることである。つまり、ますます忙しくなり、世の中がおかしくなってきている。

結果だけを重視してしまっているのは、オレオレ詐欺さんや強盗さんだけではない。われわれ稽古人だって、同じようなことをしているのである。相対稽古で技を掛け合って稽古をするときに、相手を倒すことばかり目標にするとしたら、強盗さんと同じだろう。相手が倒れる対価として、倒れるための努力のプロセスがなければならないはずである。相手が倒れるのは努力のプロセスの結果なのである。

開祖は言われている。「日本では『売る』方が先であり、日本のはすべて『誠』を売り込む、『愛』を売り込むのであります。武道におきましても、まず愛を売り込み、人の心を呼び出すのであります。」(『合気真髄』)。

結果を追うのではなく、やるべきこと、誠と愛を売り込むことをやれば、利益(結果)は後からついてくるだろうし、武道の成果も上がるはずである。