【第203回】 天才と模倣者

世の中には天才がいる。歴史上にも天才はいて、世の中を動かしたり、凡才に刺激を与えてきた。

誰が天才かというと、一つの基準は歴史に名を留めている人ということができるだろう。名を留めたのは、宇宙生成化育のため、また凡才のために働いた人であろう。もちろん悪の天才もいたが、このような天才も悪い人には刺激をあたえたはずである。

「歴史はほんのわずかな数の天才と、それに追随する無数の凡庸な模倣者によって成立していることがわかる」と司馬遼太郎は『ゴマを待ちつつ』に書いている。まさにその通りといえるだろう。
人は出来れば天才と見られたいと思うようで、なんとか天才コンクールとか、なんとか大会で、勝とうと頑張ったりしている。

天才の判定は難しいが、ここでいう天才とは凡才とは次元の違う人であり、凡才が頑張っても決して到達できないところの人と定義する。

合気道の世界では、合気道を創られた開祖が天才だろう。凡庸なものが何人頑張っても、このような深い思想に裏つけされる技の体系を創れるはずがない。次元が違うのである。顕幽神界に遊ばれた開祖と、現実世界の顕界で四苦八苦している我々とは、次元が違うわけである。天才だから合気道が出来たわけである。この天才がいなければ合気道はこの世に出現しなかったわけである。ここに天才の必要性と天才を称賛する理由があるだろう。

しかしながら、我々のような凡庸な模倣者も、この世には必要不可欠である。もし凡庸な模倣者がいなければ、合気道は普及をしなかったわけだし、開祖自身の上達もあそこまでいかなかったかもしれない。我々に技を試されたり、教えながら反応を見たり、我々模倣者の間違いから、つまり反面教師からも多くのことを見つけられ、技の精錬に役立たせられたと推察する。どんな天才武道家でも、一人ぼっちでは技の練磨など出来ないはずである。

この世に、ほんのわずかでもいいが、天才も必要だが、多くの凡庸なる模倣者も不可欠であろう。天才は模倣者に模倣させ、模倣者は後進に模倣させる。我々凡庸なものは、模倣者になって天才を模倣し、それを会得し、それを後進の模倣者に伝えていくことが使命ではないかと考える。

とりわけ模倣者が高齢者になれば、正しい後進への伝承をする心掛けをもたなければならないと考える。それが高齢模倣者の務めであろう。