【第201回】 師をおがむ

年を取ってくると、それまで無意識でやってきたこととか、みんながやっているのでやってきたことが、なぜ自分もやっているのか、やっていたことにはどんな意味や訳があったのか、分かるようになるようだ。その意味から、年を取ることは悪いことではないだろう。

最もみんなが無意識でやっていることに、礼や拝礼がある。合気道でも、道場に入る時と出るときの拝礼、稽古の初めと終わりの指導者に対する礼、合気大祭での合気の神様への拝礼と開祖(写真や像)への拝礼などがある。

若い頃はそうするものと思い、みんなと同じようにただ頭を下げていただけであった。ある程度年を取っても、頭を下げることに違和感はなかったし、その方が気持ちがよいと実感していた。また、意味のないことは続くはずはないと思ってもいたので、ずっと続いてきた礼、拝礼には何か意味があるだろうとは思っていた。しかし、その訳は分からなかった。

稽古の初めと終わりに、指導される先生に「お願いします」「有難うございました」というのは当然で、これは子供でも分かるし、できる。また、神様に拝礼するのも、弱い人間には当然のこととして理解できる。しかし、相手が人ではない道場とか、像や写真等に拝礼する明快な理由は分からなかった。

世間で言われる高齢者という年になってから、なぜ道場の出入りに礼をするのか、その礼にはどのような意味があるのか、自分なりに納得する理由づけができるようになった。これについては以前にも書いたことだが、簡単に言うと、別世界へ入ったり出たりするための儀式であると考える。

道場は日常世界とは異なる別世界、「ハレの世界」「幽界」という非日常の世界であるから、日常の世界から非日常の世界に入る場合は儀式が必要になる。もし礼という儀式をきっちりしなければ、道場に日常の事(仕事、金、トラブル)を引きずってくることになり、稽古の成果はあがるはずはないのである。道場を出るときも儀式を疎かにすれば、幽界を顕界に引きずっていくことになるので、事故などを起こすことになりかねない。

今の若者や欧米人は、師は技術を教えてくれる人と考えているようだが、我々日本人は、師とは「神様」から宇宙の普遍的原理を授かり、それを伝承する人と考え、その伝承の方法の一つが技という技術であると考えてきた。合気道の技は宇宙の営みを形にしたもので、その技を通して宇宙の営みを知り、宇宙生成化育のお手伝いをしようというものであるようだが、宇宙を知り、それを技という形に出来たのは開祖という師だけである。

従って、師を通じて「宇宙の普遍的原理」に近づくことが出来るはずであるし、それ以外に近づくことは難しいはずである。それが礼、拝礼という儀式を通して得させて頂こうということであろう。

ラマ僧が自分の師の像(写真)をつくって朝晩拝むのは、悟りを啓いた師を通して「宇宙の普遍的原理」に近づきたいからであるし、それが最良の方法だと信じるからであろう。

開祖を拝むのも、合気道を会得できるようにという思いや、また我々稽古人が最終的に求めているはずの「宇宙の普遍的原理」に少しでも近づきたいから、という理由で、唯一悟りを拓かれた開祖を拝んでいるはずである。

合気大祭等のお祭りで拝むだけでなく、開祖の銅像や写真、掛け軸の文字などを拝むことによっても、開祖が会得された「宇宙の普遍的原理」を少しずつ得ることが出来るのではないかと考えている。