【第200回】 合気道を会得して自己を知る

おそらく人は誰でも自分とは何なのか、何者なのかを知りたいと思っているはずである。どこまで深く考えるか、どこで考えるか、意識するか意識しないか等は別として、多分一度は考えるのではないかと思う。特に、年を取って自分の行く先が見えてきたときや、臨終の床の中では考えるのではないだろうか。

画家のゴーギャンが『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』(写真)という作品の絵を描いている。彼は人の永遠のテーマをモチーフにして描いたわけで、彼自身のテーマでもあったことになる。しかし、彼も我々にその答えを出してくれなかったようだし、また家庭でも学校でも、科学、宗教も、人類を納得させる答えは出せないようである。人類はまだまだこのテーマを探求していかなければならないわけである。

合気道の修行は、「自己を知る」ことでもあると教わっている。もちろん合気道を始めれば、誰でもすぐに自己が分かるということではないだろう。十分修行をして、合気道を会得しなければならないはずである。会得するとは、「自己を知ったとき」ということになる。鶏と卵の関係であるが、ここで重要なことは、合気道には「自己を知る」という可能性があるということである。開祖は、「合気道を会得すれば自己を知る」と言われているのである。(「合気真髄」)

自己を知るには、自分をいくら眺めてもだめだろう。合気道の原理原則である「対極」を見なければならない。それも極限の対極である。それは宇宙であり、137億年前にできたときの宇宙の「ポチ」 である。これを開祖は、一元の本と言われている。すべてのものはこの一元の本からできたわけであるから、すべてこの「ポチ」に繋がっていることになる。

一方、地上楽園、宇宙完成の「先の宇宙」とも繋がらければならないだろう。人はこれまで数百万年の間、生まれては死にを繰り返してきたし、これからもそれを繰り返していく。生死だけを考えたら、人類や生物がこの世に存在することに意味がないようである。しかし、人はある使命のために生死を繰り返し、新陳代謝をしていると考えれば、意味が持てるのではないかと思う。人の使命を、開祖は「宇宙生成化育のお手伝いをすること」「地上楽園をつくること」などと言われている。人の生き死にを見ると、確かに人はその方向に動いているように思える。

このように宇宙の大過去と大未来と結べば、自分がその一元と繋がったことになろう。そうすると、まず自分の宇宙における位置づけができることになる。宇宙の位置づけとは、時間(宙)と空間(宇)での自分の占めている位置である。これが最初の「自己を知る」である。

二つ目の「自己を知る」は、自分の生まれてきて死んでいる間の役割である。 これは、先述の「宇宙生成化育のお手伝いをすること」「地上楽園をつくること」ということであろう。これは開祖がいつも、合気道とは「宇宙生成化育のお手伝いをすること」「地上楽園をつくること」と言われていたことである。

三つ目は、自分の体を知ることである。開祖は体と宇宙は同じであるとよく言われていた。これが分からなければ合気道は分からない、とも言われていたくらいだから、信じなければならないだろう。科学の世界でも人間の体は小宇宙といっているから否定できないはずである。従って、宇宙を知ることは自分の体、つまり自己を知ることになるし、また自分の体を知ることは宇宙を知ることにもなるわけである。

四つ目は、合気道では自己を知るとは、天命を知ることであるという。そして、その天からの使命をやり遂げることが本当の勝負であり、自分との絶対的な勝負であるという。合気道では自分との本当に勝負をしているのである。自分に勝つためには自分を知らなければならない。合気道で上達することは自己を知ることになろう。

若いうちは自分の周りの世界のことを知ることに重きをおくようであるが、年を取るに従い自己を知るようになるし、知りたいと思うようになるものである。 「自己を知る」ための方法や解答を与えてくれるのは「合気道」だろう。合気道の稽古を少しでも長く続けて、少しでも沢山「自己を知る」ようにしたいものである。