【第197回】 生かされている

人類が誕生して600万年経った現在、地球は人間が住みやすい環境になり、人間が快適に暮らせるようにモノが豊富になった。科学が発達し、今まで解明できなかったことが分かるようになり、また見えなかったものがどんどん見えるようになってきた。今や人は希望すれば何でも思うように実現できるし、出来ないことはないと思うようになって来ているようだ。

本当に人が思う通りに事が運べばよいが、多くの事、というより大概の事はそうならない、という現実とのギャップに、今の人間の抱えている問題があるといえるようだ。

そもそも生まれてきたのは自分の意志ではないとこころから、そのギャップは始まる。死ぬのでさえ、誰も、いつどこで死ぬのか分からない。間違いなくやって来る死も思うようにならないのである。自分の意思を尊重して、希望通りに死ぬには自死するしかない。

初めと終りだけでなく、その間も自分の意志や希望で決められることなど、ほとんどない。自分の才能と努力で、多少は自分が希望している道を切り開くことはできるだろうが、「運」に比べれば小さいものだ。どんなに才能があって努力しても、運が悪ければ思うように事は運ばないし、場合によっては望みもしないのに死んでしまったりする。

そもそもこの世に生まれ出てきたのは、自分の能力や努力などではなく「運」であり、「運」以外のなにものでもない。自分の父母のタイミングが違っていれば、日の目を見なかったろうし、その可能性は大、大、大の大である。そして、父母の父母、その父母の父母・・・とどこかで一つでも狂っていたら、自分は存在しなかったわけである。世に出てきた確率を数学的に表現すれば、無限大分の1の確率ということになるだろうから、運ということになるだろう。

幸せな家庭、金持ちの家庭、そうでない家庭など、どこに生まれるのも自分では選択できないわけであるから「運」と言えるし、その関係においてもよい学校、よい会社に行くのも、よい先生やよい上司に出会うのも、あるいはその逆も、自分ではどうしようもない「運」といえるだろう。また偶然に近い出会いで一緒になる伴侶も、偶然の結果である「運」で得たと言えよう。

人間は飛行機や汽車や車、建物などなど作っているが、虫一匹、魚一匹作れないものだ。食べ物も、天の恵みを待つほかはない。それなのに、人は万能であるかのように思い始めているようである。ここに、今の大きい根本的な問題があると思う。

人は地球上で生きている。太陽が照り、夜には月が出る。海が7割、陸地が3割で、そこには人間のほかに多くの生物が生きている。

太陽と月のバランス、地球の海と陸のバランス、鳥獣草木のバランスなどなど、すべてバランスが取れていると言えよう。これは、人間がつくったものではないのである。人間はバランスの一つなのである。人間にこのバランスを崩す権利はないはずである。人は生かされていると思うべきだろう。

このバランスが崩れれば、人間もこの地球上で住みにくくなるだろう。人ができることは、最低でもこのバランスを崩さないことである。もし虫や魚や動物を作りだすことができれば話は違うが、恐らくそれは当分または永遠にできないのではないかと考える。それが出来たら人は神になれるかもしれない。

地球環境保全が大事だといっているが、地球が破壊することはない。緑が消え、水が無くなり、火の玉になっても地球は地球である。確実なのはその前に人間が消滅することである。環境保全は地球のために大事なのではない。人類のために大事なのだ。

人間が万能で何でもできると思うのは、傲慢以外のなにものでもない。人は生かされているはずである。何かのために使命を与えられ、そのために何かに創造されたと考えた方がよい。その使命に気付き、その使命を果たすことである。

開祖は、人類の使命を地球楽園の建設とされているから、そのお手伝いができれば人は幸せとなり、人類も幸せになるだろう。

これが合気道の使命でもあると思う。合気道の修行をすれば、それが分かってくるはずである。そして、このような使命に気付かせる合気道を、後世へと伝えていくのが我々合気道家の使命であると言うことも、分かってくるだろうと思う。