【第185回】 無理のない「わざ」

何でも習いごとは同じだろうと思うが、合気道も若い内の稽古のやり方と年を取ってのやり方は違えなければならないだろう。人は得てして若い頃の延長上でやればいいと思うようだし、そうは思わなくとも、違う道に乗り換えることに不安を持つものである。

それに、だいたい人は自分をまだまだ若いと思っているし、またそう思い込もうとしている。しかし、現実には、人は昔と同じように若くいられることはできない。毎日数百万個の細胞が死滅しているし、力も衰えてくる。

だからと言って、合気道の修行は若くなければいけないとか、若い方が有利であるというものではない。名人達人は若者からは出てこないものであり、やはりある程度年を取らないとできないようだ。年を取ることも大事なのである。

名人達人はただ年を重ねたから名人達人になったわけではない。上達するように精進したから名人達人になれたのである。名人達人になれるかどうかは別としても、上達するためには、年を取ってからの稽古が重要であると言えるだろう。若い時の延長上で稽古を続けていけばよいのであれば、名人達人になるのはそれほど難しいことではないが、どうもそうではないところに、問題とポイントがあるようだ。

若いうちは、体と気力を煉るのが主な稽古になると言えよう。まずは、土台をつくることである。筋肉や骨や関節を鍛え、肺や心臓を強化するのである。体力をつけることである。これは若い時しかできない。これを年を取ってやれば、怪我をしたり、体を壊すことになりかねない。

自分が年を取ったかどうかの判断は、個々人によって違うし、他人にはお節介なことかもしれない。だが、お節介の側から見ていると、年寄りの冷や水と思えることをしてくれるので、冷や冷やものでこちらの心臓にもよくない。

年を取っての稽古は、若者とは異質の稽古でなければならないだろう。しかも、年を取ったことで、若者の時より更なる上達がはかれるような稽古をしなければならない。

体力がついて、体力をつけるのももう限界だと感じた時、それが稽古の転換期であろう。そして、ここから本格的な稽古が始まるといってもよいだろう。この時期を「年を取った」と言っている訳で、これは次の段階に進むことであり、ネガティブではなく、年を取ることは素晴らしいと言っているのである。

年を取ってはじめて本格的な稽古が始められるわけだが、本格的な稽古とはどういう稽古なのかということになるだろう。

一口に言えば、「技の練磨」である。合気道の上達は技の練磨を通してであるから、合気道を精進したいなら、技を練磨しなければならないからである。
若いうちは、力の合気道で、パワーに頼ったものだろう。力も「技の内」であるから、若者の技はパワーであるが、年を取っての技は合気道が追及すべき本格的なものである。本格的な技とは、開祖が言われている、「宇宙の営み」「宇宙生成化育」と一体化した形、決して宇宙と逆らわない形ということになる。

若い時は、相対稽古の稽古相手が対象であり、時としてはライバルとして、稽古に励むものだ。年を取ってからの稽古は、宇宙を対象にした稽古ということになろう。宇宙の運行を形にした技を身につけることによって、宇宙を感じ、宇宙と一体化するというのである。

新しい「技の技」を発見し、それを身につけることによって宇宙がそれだけ身近になるわけである。例えば、「宇宙は二重螺旋で出来たし、出来ている。」ということは、人は物質と精神で物事を成し遂げなければならないわけで、技も力(魄)だけでなく精神(魂)も必要であるということであろう。

また、宇宙で活動しているものには中心がある。小さいものや軽いものはその中心を回る。稽古でも自分が中心になって、相手が自分の中心を回るようにしなければならない。自分の体でも、中心は腰腹であるので、ここを中心に末端の手を遣うようにしなければ、宇宙の法則に反することになる。

また、「天火水地の十字の交流によって生みだされる言霊の響きによって宇宙万物が生成されたのであり、それに習うことが合気の道なのである」といわれているように、合気道のわざ(技と業)も十字となる。従って、合気道は「十字道」とも言われるわけである。手先は十字々々に遣わないと技は掛からないし、力で抑えつけられて動けなくなってしまうものだ。手だけではなく、足や体幹、相手との関係も十字が基本となる。

宇宙の法則は無限にあるはずである。修行に決して終わりはない。年を取ったら、宇宙の法則にしたがった稽古をすればいいことになる。これが「無理のないわざ(技と業)」ということであろう。