【第182回】 知ることはまだまだある

ものを知ってしまうと寂しくなるものだ。ここも行った、これも食べた、これも知っているとなると、驚きや感動がなくなり、寂しくなるのであろう。年をとるとは、ものを知っていくことになるので、寂しくなることになる。それに、年を取るに従って、体は若いころのようには動かないし、冒険やチャレンジをしようとも思わなくなってくるから、よけい新しいものに感動することが少なくなる。そして、単調な毎日となっていくのではないだろうか。

寂しくならないため、感動を得て元気に生きていくためには、まだ知らないことを知ればよいのである。知らないことを知れば、若かったときのように驚き、感動するし、ものを知る素晴らしさ、明日はどんなものとの知る出会いがあるのかという、わくわく感が湧いて、もっともっと長生きしたいと思うようになるだろう。

とはいっても、年を取るにつれて、自分の生活圏における外界のものはほぼ知っているだろうから、外界に新しいものを求めても意味がないのではないか。例え、まだ海外を知らないからと海外旅行をしても、そう長い間出来るものではないだろうから、それだけではその内に寂しくなるようだ。

知ればよい新しいものは、外界ではない。自分の内にあるものである。外の世界は知っているが、自分自身の世界はほとんど知っていないはずである。たとえば、人間の体は完璧といってよい程よくできている。皮と肉と骨の組み合わせと機能等など摩訶不思議というほかはない。これを心が動かしている。心も摩訶不思議である。

肉体や心や呼吸(いき)の不思議に触れたとき、その驚きや感動は、初めて外国を見たときと同じか、それ以上であろう。

合気道の修行は、自分の体や心を見つめていくものなので、常に新しい発見があり、新しいことを知ることになる。ここには、知る限界はないようだ。まさに底なしである。知りつくして寂しくなるということは、決してないようだ。

体にも裏表があること、手も足も表を遣わないと力が出ないこと、技を掛けるときは手を十字に反転しながら返さなければならないこと、体の三軸を一軸にすると最大の力がでること、腰が力の源、要(かなめ)であること、腰と手足や顔が結んでいなけれならないこと、手首、肘、肩が十字に機能し合うこと、吸気で関節と筋肉が緩むこと等など。自分の出来る範囲で、どんどん自分の合気道を掘り下げていけばよいだけのことである。知ることはまだまだある。