【第180回】 使命

昔のことはよく分からないが、最近、命を粗末にする人が多いように思われる。例えば、一日平均で約100人が自殺しているという。また、生きていてもおもしろくないというので、他人に車をぶつけて殺し捕まるとか、自分の命も他人の命も粗末にしているようだ。

人は何か目標がないと、一生懸命に生きられないもののようだ。つい最近まで、人類は食べることを目標に生きてきたといえるだろう。ネアンデルタール人やクロマニオン人の時代はむろんのこと、その後の狩猟、牧畜、農耕時代でも、いかに食べつないでいくかが最重要課題であったろう。一日の大半は食料品の確保に費やされたはずである。

近世になっても、まだまだ食べることが人類の最大の課題であり、マルサスの「人口論」などが幅をきかせていた。私の大学生時代でさえ、「腹いっぱい食えれば幸せ」という時代だったので、社会に出たら、腹一杯食えるようになるよう頑張ろうと思ったものだ。

人類は長い歴史の間、腹が一杯になれば幸せになれると考えて、それを目標に頑張ってきた訳だが、腹一杯食べられるようになってみると、どんなに腹一杯食べられるようになっても、また、どんなにものを所有しても、十分に満足することが出来なくなっていた。

そういう時代に、何がまだ不足しているのか、何を目標にして生きるべきなのかということになるが、開祖は、物(魄)の上に心(魂)が来て、心が物を制御するようにならなければならない、と言われている。物を否定するのではなく、これまで培った物を土台にして、その上に心(魂)を持ってくるのである。

生きる目標をちゃんと持っていると、生きる張りあいになるし、恐らく自殺や犯罪などは起こし難いのではないかと思う。以前なら、食べるため、家族に食べさせるために、頑張ることが目標であり、張り合いだった。現代では、それはもはや生きる目標や張り合いでなくなりつつある。とりわけ若者にとっては、そのようだ。若者は何か新しい生きる目標や張り合いを模索しているようである。

生きる目標とは、つきつめれば「使命感」と言うことが出来るのではないだろうか。今、若者も含め、人は自分の「使命」を、無意識のうちに探し求めているように思える。ここでいう使命とは、合気道でいう「天の使命」である。

それは、人それぞれに違うだろうが、すべての人が何かの使命を帯びているのではないかと考える。自分の子供を育てるのも使命だし、他人の子供を育てる教育者の仕事も使命であり、会社を経営して従業員の経済的な基盤を提供することも使命であり、いろいろな使命があるであろう。

使命とは「天の使命」である。自分の「天の使命」を知るために、開祖は「自分の腹中をよく眺め、自分というものはどこから出てきたものであるか、また自分は何事をなすべきか、よく自分を知るということ」であると言われている。(同上)

使命を持つのは、人だけではない。合気道も使命を持つ。合気道の使命は、真の武人の養成と言われる。これを開祖は、「全大宇宙の無限の発展完成のために、武、即ち戈(ほこ)の争いを止めさせるのが真の武人。武道家(真の武人)は宇宙より課された、この有意義な大使命を果たすことにより、宇宙を和と統一に結ぶことができる。かくして世界は平和になる。」(合気真髄)と言われている。

さらに、合気道が養成する真の武人の使命を、開祖は「真の武人は、与えられた自己の使命に打ち勝つところの正勝吾勝でなければならないのである。そして使命に打ち勝つということは、己の心の中の『争う心』に打ち勝つことであり、己に与えられた使命を成し遂げることである。」(同上要約)と語っておられる。

合気道は、「天の使命」ということを教えてくれるものである。だが、これでは普通の人たちには難しいだろうから、我々が真の武人となって、若者たちを啓蒙していくようにしなければならないのではないだろうか。若者を含め、みんなが自分に課せられた「天の使命」を知り、それを果たすようになれば、人身事故の元も減るだろし、お互いの命を粗末にするような犯罪や事故も減ってくれるのではないかと考えている。

参考文献  『合気真髄』 植芝盛平語録・植芝吉祥丸監修 (八幡書店)