【第154回】 培ったことが技に

合気道には勝負がない。勝負がないために人の技の良し悪しを判断するのは難しい。勝ち負けなどの基準がないからである。

それに、技は人それぞれ違う。技はその人を表すものである。その人の性格、その人が歩んできた歴史、その人の目指すもの等々が技に出てくる。故に技を見るとその人が見えるのである。人は技を通してその人を見ていることにもなる。

人は本能的に、自分を何かの形で表したいと思うのではないだろうか。だから、人は絵を描き、詩をつくり、文章を書き、作詞作曲するし、歌を歌ったり、楽器で演奏したり、踊ったりするのだろう。自分を表現するものを見つけて、持っている人は幸せである。その意味では、合気道も自分を表現できるので、合気道家は幸せと言えよう。

若い内は、その若さや希望や夢が技に表われる。しかし、年配者と比べると、人生の経験が少ないし、人生からの知恵も少ないので、技に勢いはあるが、荒っぽいし、厚みがないことにもなる。

技は、正直だ。口では何とでも言えるが、その人の技はその人以上には出来ない。その人そのものである。厚みのある技、摩訶不思議の技をやりたければ、自分自身そうなるように努力するほかにない。技を上手くするために、技の稽古を繰り返し々々やるのも必要であるが、自分を変え、自分に厚みをつける努力をした方がよい。

ある技が上手く出来ず、行き詰まったとき、その技の稽古を続けるよりも、そこを離れ、それとは関係ない別なことをやって、その問題を解決する方がいい場合も多い。例えば、基本に戻り再出発してみるとか、他の武道やスポーツを研究するとか、山歩きをしたり旅行をしたり、哲学書や宗教書などの本をよんだり、講演を聴いたりすることである。

人は完全ではないし、完全にはなれないが、完全を目指すものであるようだ。その目指すものキーワードの一つは、「円満」だろう。技に不得意なものがないようにしたいだろうし、自分に欠けるものがないよう、欠点がないようになりたいということだろう。技と、それを遣う自分自身は一緒であるので、技に欠けたところがあることは、自分自身にも欠けたものがあるということになる。

技は、自分を写しだしてくれる鏡である。技をより円満にすることによって、自分自身を円満にしようとするのであろう。

高齢者の合気道は、この「円満」を目指すものではないだろうか。それまでに培ったことを大事にし、多すぎることを削り、欠けているものを補うことである。若い頃は、自分の得意なものをどんどん伸ばせばいいので、円満に反する角ばったものになる。角ばれば角ばるほど若者らしく、個性的となる。

これとは対照的に、高齢者にあっては、円熟、円満こそ理想とするものなのではないだろうか。50、60歳では、自分が培ったものや自分に欠けたものは分からないものだ。70歳を過ぎたころから、ようやくそれに気づき、自分の真の姿が見えるのかもしれない。そして、そこからまた新たな修行の道が開けるのではないかと思う。

自分がそれまで培ったこと感謝するとともに、それを大切にし、叉まだ自分に欠けていることを自覚し、補うようにしなければならないだろう。自分に欠けたところを補うためには、今まで興味もなかった分野のことを研究したり、これまで読んでみようとも思わなかった本を読んでみたり、合気道とは別の世界、自分の世界とは関係ないと考えていた別の世界、例えば、お能、歌舞伎、踊り、絵画、音楽、宗教などの世界に興味を持ち、研究するのもいい。そして、その新たな世界から培ったものが、技を変えることが分かり、その相乗効果を楽しむことも出来るだろう。

培ったことが、技になるのである。多種多様のことを経験したり、大事なことは深く掘り下げたりして、自分を培って、それが技に結びつくようにすることで、円満な技遣いをする円満な人間に成りたいものである。