【第147回】 何が大事か

合気道の稽古に通う目的は、人それぞれにちがうだろうが、必ず目的、動機があったはずである。しかし、稽古を続けていると、往々にして多くのひとはそれを忘れてしまったり、あまり意識しなくなってしまうようだ。

技の稽古に入る前の準備運動一つにしても、何が大事か分かってやるのと、意識しないか、分からずにやるのとでは大違いである。意味のないことを形式的にやるのは、時間と労力の無駄であろう。稽古できる時間と生きる時間は限られている。特に年を取れば取るほど時間と力は少なくなってくるから、無駄なことは避け、大事なことを効率的にやるべきであろう。例えば、手首関節を柔軟にする運動にしても、手首関節が最大限伸びるように、意識と力をそこに集中しなければならない。開脚で脚の柔軟体操をする場合も、何のためにするのか、どこを伸ばすのか、そのために何が大事か分かってやらなければ、やる意味が半減するだけでなく、場合によっては体を痛めてしまうことになる。

技を上手く遣おうと思うなら、上手くなるように稽古をしなければならない。長く稽古をすればうまくなるというものではない。もしそうなら稽古年数が長い人が上手いことになるので、上手下手は稽古年数で決まることになってしまう。しかし、現実は違うだろう。稽古年数が長い人に上手い人が多いことは事実だが、そうとも限らない。ということは、長く稽古をすることは、上手くなるための必要条件ではあるが、絶対条件ではないということである。上手くなるための条件は、上手になるように長くやるということであろう。

上手くやるためには、何が大事かが分かり、大事な事を自得することであろう。前述のように、体操でさえも何が大事なのかを意識してやらなければならないが、技を上手になろうとしたら、何が大事なのかが見えなければ難しいだろう。一つの技に大事な事は無数にあるはずなので、すべてを一度に自得することは出来ないが、自分で優先順位をつけて一つづつ会得していくしかない。

何が大事かは、人によって、またその人のレベルによって違うが、大事なものを探し、自得していくと、だんだん次の大事なことが深いところから出てくるものである。例えば、正面打ち一教を考えると、入門したときは、まずその型を覚え、手足体の遣い方を覚えることが大事なことである。それが分かって、考えなくとも手足や体が動くようになると、何とかして相手を倒そうと考える。そのときは相手を倒すことが大事になるかもしれない。

ある程度、稽古相手を倒せるようになると、合気道の体ができて、技の型も覚えたことになり、真の合気道の稽古に入れるようになる。例えば、天の浮橋に立った、十字道であり、争わない結びの合気道である。

正面打ち一教の場合は、相手が打ってくる手を弾かないように結ばなければならないから、ぶつからず、弾かずにするためにはどうするかが大事になる。十字になるようにすることも大事である。手足を陰陽で遣うこと、手や体を螺旋で遣うこと等々大事なことが沢山ある。

技、とりわけ基本技には、本当に大事なことが沢山ある。それが出来なければ他の技もできないし、それを無視すると、合気道とは違ったものになってしまうことになりかねない。

何かやるときは目的、目標があり、それを達成、自得するための方法、手段がある。この目的、目標と方法、手段が大事なのである。稽古でも、体操や歩行においても、何が大事かを見つけ、気をつけ、一つ一つ自得して行かなければならない。これが道を進む、道を開いていくというのではないか。

高齢者の残り時間はどんどん少なくなってくる。無駄なことは極力やらないようにしたいものである。