【第146回】 道は自分で開くもの

求める道があれば、どんな道にも、あるところまでは先達がいる。合気道では開祖植芝盛平翁であり、直弟子の方々である。もし開祖やお弟子さんである師範達がずっと元気で、我々を指導し、道を開いて下さればいいのだが、残念ながら、人には寿命があり、開祖と言えども、我々の道をあるところまでしか開くことが出来なかった。

合気道を修行するということは、合気の道を求めること、道を開いていくことである。あるところまで先達に導かれた道を、後は自分で開いていかなければならないことになる。

しかし、「道」が分からなければ、また道にのらなければ、道を開くことはできない。合気道というのは、合気の道であるが、まずこの道を見つけなければならない。

道というのは、人間の血管のようなものとも考えられる。体の末端にある毛細血管から、それが集まって静脈や動脈の太い血管になり、肺や心臓に集まる。求める道も細いものがあり、それが集まって太くなるが、それがあるところに繋がっているはずである。血管の外には血は流れることがないように、道を外れれば道を進むこと、道を開くことはできないことになる。

合気道を修行して目指すものは、人によってそれぞれ違うだろう。いろいろな目標はあるだろうし、また幾つかの目標があるとすれば、比重の掛け方は違うだろう。ただ大事なことは、それが道であるということである。道とは宇宙生成化育につながり、それに矛盾しないことであろう。宇宙生成化育、宇宙の運行に逆らっていないことである。

開祖は、『合気真髄』で我々合気道同人に望むこととして、次のようなことを書かれている。「私が合気道修行者に望むことはどういうことかというと、この世界のありさまを始終よく眺め、また人々の話しをよくきいて、良きところを自分のものに取り入れ、それを土台にし、自分の門を開いていかなければなりません。例えば、天地の真象をよく見て、自らこの真象によって悟る。悟ったらすぐ行なう。行なったらすぐ反省し、という具合に順序をたてて、悟っては反省し、行なっては反省するというようにして、だんだん向上していただきたい。」 このような向上を通して、道は開かれるということになる。道は、あるところから先は、自分で後を開いていかなければならないのである。

参考文献   『合気真髄』