【第142回】 個性的

地球上に数十億の人が生きているが、ひとりとして同じ人はいない。数年前に107歳と108歳で亡くなった双子の姉妹「きんさん」と「ぎんさん」(写真)でさえ、顔つきは多少違っていたし、その上血液型が違い、好みの魚も赤身と白身と違ったと聞く。人はひとりひとり皆違い、そしてこの違いになにか意味があるようだ。

人は年を取ってきてから、本当の仕事ができ、そして成果をあげられるようだ。もちろん、モーツアルトのような例外はあるし、若い内に成功し、名を上げる人もいるだろうが、それが更に本物になるのは歳を重ねてからといえるだろう。年を重ねるまで行かなければ、他人より優れるかもしれないが、自分に打ち勝つものができないと思うのである。そういう意味で、もしモーツアルトが100歳まで活躍していたら、もっともっと素晴らしい曲をつくってくれただろうと考える。

若い頃は女優や美人に目を奪われがちであったが、高齢者に胸をどきどきさせたことはなかった。年を取ってくると、目を奪われ、素晴らしいと思うのは、高齢者であり、高齢になっても一つのことを飽くこと無く追求している人達である。写真などの映像でしか知らなくても、世に認められるような何かを残した人の顔は素晴らしく、個性的である。その人の芸や業(わざ)や術は、若者に真似ができないものである。若い人たちは似たような顔が多いが、年を取ってくると、顔はどんどん個性的になり、他人との差ができるようだ。特に、大きな仕事をしている人やした人の顔は深みのある個性的で、魅力的である。

芸術でも芸能でも、よいといわれる芸や業には個性が出る。逆に言うと、個性のないものには魅力がない。人は無意識の内に、他人と違う、何か個性的なことをやりたいと思うようだ。特に、芸術や芸能に携わる人はそう思うだろう。合気道を修行している人の中にも、そういう人がいるだろう。しかし、若いうちは自分の個性を出そうと思っても、簡単に出せるものではない。何故ならば、若いうちとか、物事を習い始めのときは、習うこと、学ぶこと、やるべきことが沢山あり、それをやるので精一杯のはずだからである。

はじめは個性など出そうにも出せないものだが、たとえ出せるようになっても、なるべく個性をしまっておいて、やるべきことをやらねばならない。それが基本である。何にでも基本がある。絵画であればデッサンがあるように、合気道にも基本技がある。基本が出来てなくて個性的にやるなら、それは我流であり癖である。後には続かない。自分一代だけのものである。

基本をきっちりやってそれが身についたら、自分に合うように工夫していく。自分との戦いがはじまる。それに人生観や世界観が加わり、初めてそこに個性が出てくるのである。

基本をマスターするにも相当な時間がかかるし、世の中のことが分かり、自分の人生観や世界観が出来るにも、時間が必要である。やはり60歳以前では、本当の個性を出すことは難しいように思える。開祖が50,60歳は洟垂れ小僧といわれた意味は、こういうことだったのかもしれない。

個々人がみんな個性的になろう、他人とは違おうとするのは、宇宙の意志かもしれない。宇宙生成化育のためには、人類だけでなく生物のすべてがそれぞれの役割を担っていて、それを果たさなければならないわけだから、ひとりひとりが違っている方が、宇宙生成化育を促進することになるだろう。従って、動物や植物にも、それぞれに役割があるのだから、ある種類の動植物が絶滅するということは、宇宙の意志に反することになるだろう。もし人が個性を失くして皆同じようになったら、宇宙生成化育はブレークしてしまうはずである。

高齢者になれば、個性的な合気道ができるはずであるし、またそうであらねばならないと思う。そのためには、先人から受け継いだ財産をしっかり守り、自分の鍛錬を怠らず、自分に負けないように戦い続けなければならないだろう。

資料 日刊スポーツ新聞