【第135回】 ユーモアを大切に

世の中ますますギスギスしてくる。ビジネスの世界だけでなく、日常生活でもいい笑顔がなくなってきている。他人に対しても敵か味方かと、0と1のデジタル的な判断をしないと落ち着かないようだ。知らない人に笑顔などとんでもない、とでも思っているかのようである。

現代はまだ「物質文明」と言われるように、「パワーの世界」「若者文明」である。他人より少しでも抜きん出ようとしている社会といえよう。心に余裕を持てないのであろう。

世の中には馬鹿馬鹿しいことが沢山ある。しかし、一番馬鹿々々しいことをやっているのは自分自身であるということが分かってくれば、他人がどうのこうのということもなくなるはずである。

人は自分が一番偉く、他人より上であると思い込みたがるようだ。その為、いつも自分を相手と比較して、自分が上だと満足しているのである。他人に劣っていると思われることは、比較するのを敬遠する。

世の中、大抵のことは思い込みであり、錯覚であるといえる。だが、それに気づかないでいると、自分は大したものだ、偉い、間違いないなどと思い込んだり、錯覚してしまうのである。そして「土手の上の犬の糞(ふん)」のように、一人で威張っているのである。

そのような錯覚や思い込みほど滑稽なことはない。これを端的に表現しているものが古典にあるので、作者は忘れたが紹介したい。

 蓮(はす)の葉っぱに、
 溜まった水は
 釈迦の涙か ありがたや
 そこへ 蛙(かわず)がヒョコと出て
 それは おいらの尿(しい)でそろ

まあ、世の中すべてこんなものだろう。有難がっているもののほとんどは、こんなものではないだろうか。

年を重ねてきて高齢者になると、生まれてきた不思議さ、有難さ、生きている喜びなどと同時に、自分の愚かさやおかしさ加減も見えてくるものだ。自分が見えてくると、だんだん周りが見えてくる。今まで外面でしか見えなかったものが、その内側にあるものも見えてくる。本人が気づかない素晴らしい点や馬鹿々々しい面が見えてくるのである。そうしたところから出来たものが、「方丈記」「平家物語」「東海道中膝栗毛」、最近では養老猛司の「バカの壁」その他の著書、さらには侘びさびなどではないだろうか。外面的なものだけに価値を置き、本質を見ないで、大事でないことを大事だと錯覚することのおかしさを示唆しているのが、上記の詩(うた)であり、ユーモアであろう。

高齢者になれば、自分を笑えるようになるのがよい。他人を笑って、自分を正当化しても面白くない。自分の未熟さ、愚かさを笑って行けば、その先に何かが見えてくるのではないだろうか。これからは、本当のユーモアをもって生きることができるだろうから、ユーモアを大切にして生きていきたいものである。