【第132回】 未知との遭遇

子供の頃は、毎日が新鮮であった。ほぼ毎日、何か新しいものを見たり、聞いたり、食べたり、発見があったり、いつも新しい体験をしようとしていた。そうした体験を通して、巨大で複雑な世の中の事が少しずつ分かってきて大人になった。

仕事をするようになると、仕事に時間もエネルギーも忙殺され、毎日が緊張の連続で新しい体験を見つけることは難しくなる。毎日が目まぐるしく過ぎて行き、退屈する余裕も一見ないように見える。毎日が変わっても、子供の頃と違って自分の意志とは関係なく、自分が望んでもいない方向に、周りだけがどんどん変わっていく、といっていいだろう。

定年を迎えると時間的余裕ができるだけでなく、精神的な余裕もできるはずである。しかし、生活は単調になり、忙しかったときを懐かしむ人さえいる。そして、単調な生活から少しでも抜け出そうと何かをはじめる。稽古事、趣味、旅行等々である。でもそれをやっても、多くの人は長続きせずに止めてしまい、また何か新しいものを見つけようと何かを始める。それも長続きせずに止めて、だんだん何もやらなくなる。しかし、何か新しいもの、「未知との遭遇」を依然として期待しているのだ。

子供の頃や若いときは「未知との遭遇」も沢山あっただろうが、高齢者になると難しい。若い時のように、知らないところに行き、新しいものに出会い、新しい体験をしても、「未知との遭遇」とはならないからである。いろいろな国を旅行したとしても、また知らない国へ行ったとしても、「未知との遭遇」への感動は小さくなっているだろう。高齢者はいろいろな体験をしているわけだから、「未知との遭遇」で感動するのは容易ではないはずだ。

高齢者の「未知との遭遇」は、自分の未知の部分との遭遇でなければならない。長年生きてきたのだから、世の中のこと、社会のこと、自分を取り巻く環境のことはよく分かっているはずだが、意外と自分自身のことはそれほど分かっていないものである。どのぐらい分かっていないかというと、宇宙のことが分かっていない程度に分かっていないと言える。合気道では宇宙と人体は同じであるといわれるからである。

自分自身の未知の部分を見つけるほど、楽しいことはないはずである。この高齢者になっての自分の中での「未知との遭遇」によって、自分がさらに分かり、自分が変わってくることになる。変わった自分が周りを見れば、周りは変わって見えるはずである。これが高齢者の真の「未知との遭遇」であろう。高齢者の「未知との遭遇」とは、未知の「自分との遭遇」である。この「自分との遭遇」を繰り返せば、退屈などする暇はない。

「未知との遭遇」とは、周りを探すのではなく、自分で自分を変えて行くことといえよう。合気道は「未知との遭遇」を約束してくれる道であると考える。