【第131回】 高齢者が模範に

世の中ますます忙しくなってきている。ICT社会などといわれるが、つまりは情報と通信に翻弄されている社会といえる。仕事や生きるために役立つ情報もあるだろうが、ただ目を開けているだけでも不必要なものまでどんどん侵入してくるし、耳からもはいってくる。便利になるために作られたであろう携帯電話も、所や時間にお構いなくかかってくる。夜の7時、8時に電車の中で会社からの仕事の電話を受けて話しているのを見ると、携帯電話で会社に縛り付けられているとしか思えない。これでは、人身事故が多発するのも分かるような気がする。

日本だけでなく、世界中が忙しくなっている。航空機、通信技術、国際的ニュース網、テレビなどの発達と普及により、世界の様子や出来事は瞬時に知ることができるようになった。しかし、大体のニュースは戦争、災害、株暴落、犯罪などのネガティブなものであるし、実際よりオーバーに報道されたり伝えられる。こんなものをいつも見聞きしていたら、人間誰もが悲観的になってしまう。特に若者は人生経験が浅いので、それを鵜呑みにしてしまい、体験から裏も知っている高齢者のように半分疑ってみるということもできず、悲観的になって、先の人生に希望をもてなくなるのではないかと危惧する。

若者は迷っている。何を目標にして生きればいいのか、どう生きればいいのかを模索している。若者はいつの時代も、自分の生き方、生きる目的で悩むようだが、このように情報が氾濫し、自分が必要とする情報がいくらでもあるような時代でも悩んでいるのである。生きる張合いが見つけられないのである。情報では若者の悩みは解決できないようだ。いくら雑誌を見たり、テレビや携帯電話のブログを見ても、自分の悩みには答えてくれないのである。

若者に生きる張合いを与えることができるものの一つは、「高齢者の生き様」を見せることだと思う。高齢者が元気で生き生きと暮らす姿を見せれば、若者は自分も将来そうなりたいと思うだろうし、そうなるために頑張ろうと考えるだろう。逆に高齢者の生き様がみすぼらしければ、いずれこんな風になるのなら長生きしたいとも思わないだろうし、現在だってどうでもよくなり、刹那的にもなってしまうだろう。

高齢になっても、ますます魅力が出る方々がいる。自分のやってこられた事にさらに完成度を高めたい、完成に向かって一層の努力をしようという姿勢、長年やってきたことを通して創られた人間的魅力と、蓄えられた知識と知恵などが、人を魅了する。高齢者が何かに取り組んでいる姿は素晴らしい。千日回峰に挑戦する老僧、百歳を越えて活躍している医師、老齢の武道家や芸能家だけでなく、自分の周りや街でも、顔つき、姿勢、服装のセンスなどが魅力的な高齢者を見かける。

若者が魅力を感ずる高齢者とは、自分よりもレベルの高いものを持っている人であろう。若者が到底出来ないような技や知識や知恵を持っている高齢者である。10年や20年では得られないもの、若者には到達できないレベルを持っていて、それでも一層精進したり、よくしようという執念と、少しでも完成に近づけようとする姿勢が、若者を惹きつけるはずである。このような高齢者を若者が見れば、若者にも生きる勇気と張り合いが出るだろう。

合気道の道場稽古でも、高齢者が長年培ってきた業(わざ)と知恵を駆使した稽古をし、また自分の更なるレベルアップをすべく、元気で飽くなき挑戦をしていけば、若者もそれを目標に頑張るはずである。高齢者の稽古での頑張りは、若者に一つの道を示すことになる。あるレベルに達するには稽古は長く続けなければならないし、そのためにも、稽古はできるだけ長く続けなければならない、そのためには長生きもしなければならない、と思わせることであろう。

高齢者の若者に対する稽古における責任、そして社会に対する責任は大きい。