【第11回】 自分流は普遍的

人は一人として同じ人はいない。大きい人、小さい人、力の強い人、弱い人、腕の長い人、足の短い人、気の強い人、弱い人、挑戦的な人、のんびりした人、など様々である。
稽古をするときにも、いろいろな人と当たることになる。こちらからいく場合もあるし、向こうからくる場合もある。人によっては教えようとしたり、アドバイスしてくれることもあるが、相手によっては正反対のことを言ったりするので、聞く方は混乱してしまうこともある。正しいと思って言ってくれるのであるが、だれでも自分を基準に考えているので、言うことが正反対になることもあるのである。

合気道には形はないといわれ、どれが間違いで、正しいかということはない。どれも合気道なのである。しかし、自由であるが、自己流に陥りやすい。合気道は自由で、個性的なものになるが、そこにはどうしても欠かすことができない基本原理がなくてはならない。それがないのは自己流といい、その人一代かぎりのものである。

道場では、初めはいろいろな人と稽古をして、その感覚を覚え、次第に投げられ強くなったり、受けがうまくなったり、また対処方法を覚えたりする。強い人やうまい人のやり方をなぞって真似をするわけである。稽古事は真似から始まる。
しかし、例えば小柄な人が大きい人のやり方をするのは難しいもので、自分に相応しいやり方を作り上げていかなければならない。それを繰り返し、さらに原理原則を探究する稽古することによって、自分のものが出来てきて、それが自分流となるのである。従って、自分流には普遍性もあるわけで、どんなタイプの人とも稽古ができるということでなければならない。相手が力のある人や、子供、女性、高齢者でも同じである。また、過去の柔術や他の武道ともつながりがなければならない。合気道で投げ飛ばすだけでなく、場合によっては、柔術のように絡め取ったり、護身術としても使えるはずだ。

若いうちは元気で、相手のことはあまり考えず、力まかせ、体力まかせで稽古するが、人を納得させるのは力だけでは不十分であることが分からないからである。技にはその人の哲学、宗教、人生観、世界観などが入っていなければならない。長い時間かけて身につけたものが、人を納得させられる。つまり、技は自分の表現なのである。人が納得するものはなにか。これを一言でいうと「愛」である。若者には、なかなか難しいことであるわけである。
高齢者になったら長い人生からの体験による自分流の生き方で、「愛」をもってどんな人にも対応できる普遍的な人になりたいものである。